このエントリーをはてなブックマークに追加

阪大の先生③圀府寺司さん シャガールの実像に迫る

大阪大学を卒業後、オランダへ留学。「国立図書館が私のような外国の学生にも自由に作品を開放していることに驚き、じっくりと学べると思った」

 シャガールは、日本でも人気の高い画家だ。毎年のように全国各地で展覧会が開かれ、多くの観客が彼の代名詞「愛と幻想の画家」の世界に触れている。大阪大学文学研究科の圀府寺(こうでら)司教授は、そのイメージは「絵を売るために作られたもの」と話す。近著「ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか?」(大阪大学出版会)では、ロシアのユダヤ人都市で生まれ育ち、第2次世界大戦や東西冷戦時代を生き延びたシャガールの実像に、これまでとは違う視点から迫っている。

 シャガールが97年の生涯を終えた1985年、故国ソビエトではゴルバチョフが書記長に就任し、グラスノスチ(情報公開)が始まった。それによって、シャガールのロシア時代の作品が西側諸国にも開放された。シャガールは、ヘブライ文字を使うユダヤ言語のイディッシュ語を使っていた。その後、学校で習ったロシア語、移り住んだ先でフランス語を使うようにもなるが、作品の中にはイディッシュ語や、イディッシュの慣用句をモチーフにしたと思われるものが数多い。

 「文化的なアイデンティティーの揺らぎが大きい人物には興味がわく。絵は見るだけでなく、読むものだから」

 1937年に描かれた「革命」という作品がある。赤旗を掲げ武器を持つ群集が取り囲む中、レーニンと思しき人物が逆立ちをしている絵は、1948年にシャガール自身が3つに切断して改変し、「抵抗」「復活」「解放」というタイトルを与えられた。「1937年は、終生のライバルでもあったピカソが、傑作『ゲルニカ』を描いた年。それに影響されたとも言えるが、シャガール自身にも大きな出来事があった」と圀府寺さんは言う。1937年、シャガールの師がソビエト秘密警察によって殺された。作品を分割する前年には、友人ら多くの知識人が殺されている。「ピカソはストレートに戦争や国家体制を批判できたが、亡命していたシャガールは人質を取られていた格好で、常に表現に自制をかけていた。愛と幻想という作品テーマは、そういうものしか描けなかったとも言える」

 美術に触れる際に一番大切なことは「自分の感性」という。「好き嫌いが出る世界。嫌いな作品だと言えるのは、自分の感性を持っているから」。だから、最近の展覧会に多い音声ガイドは「絶対に使っちゃダメ」と笑う。「拙くてもいいから、自分の目で見て感じてほしい」(礒野健一)
=地域密着ウェブ「マチゴト豊中・池田ニュース」第34号(2012年1月12日)

大阪大学 シャガール

更新日時 2012/01/11


関連地図情報

関連リンク