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阪大の先生㉙武田佐知子さん 衣服の歴史に新説

「これからやってみたいことは、オーロラを見ること。これだけは、映像ではなく、実体験でないとわからない感動があると思うから」

 現代における服とは、自らを彩りアピールする手段の最も重要な要素で、センスによって自由に着こなすことができるものだ。しかし、そうなったのはごく最近のことで、服装とは古来、身分や性差などの違いを表す象徴でもあった。大阪大学大学院文学研究科の武田佐知子教授は、そうした観点から、日本の古代史や文化にアプローチし、通説にとらわれない説を発表している。
 古代の日本人が一般的に着用していたとされる貫頭衣(かんとうい)というものがある。通説では、1枚の布に穴を空け、そこから頭を出して着る服とされているが、武田さんは「当時の織り機では、せいぜい織り手の肩幅程度の布しか織ることができない。人をすっぽり覆うような大きな布がないのなら、今言われている貫頭衣の形はあり得ない」と反論する。
 衣服と同様に、色も身分を表す象徴だった。最も有名なものは、聖徳太子が定めたとされる「冠位十二階」だ。位の高い順に、紫、青、赤、黄、白、黒とされ、それぞれの色も濃淡で2つに分かれる。これが教科書で習う常識だが、実は色については全て推定でしかなく証拠文献はない。武田さんは「白に濃淡があるっておかしいでしょう?」と言い、続けて聖徳太子の姿についても言及した。「1番知られている聖徳太子は、お札にも使われていたヒゲを生やした姿。でも、その服装は飛鳥時代のものではなく、描かれたとされる奈良時代のもの。髪型も本来は角髪(みずら)を結っていたはずで、これ以外の太子像のほとんどは、その姿。だから、お札の姿が聖徳太子なのかどうか、本当は疑わしい」と指摘する。
 東京生まれ東京育ちだが、母方の実家が奈良県桜井市だったため、子どものころから大和三山を眺め、古代史にあこがれを抱いていたという。大阪には29年住んでおり、「今も飛鳥や天香具山の風景を見ると落ち着く」と話す一方で、「十三や天神橋筋みたいなゴチャゴチャした雰囲気も好き」と笑った。
 最近は、和服から洋服へと移り変わっていった近代に注目する。「それまで着ていた和服が古くて野暮なもので、家庭に取り残された人の象徴というように、記号が変化していった様は、古代日本が中国の様式を取り入れていったことにも通じる。また、喪服の色と言えば今は黒が常識だが、これは明治天皇の皇后の葬儀をきっかけに広まったもの。そうした変化を探るのは面白い」
 最後に、武田さん自身の服飾、ファッションについて尋ねた。「研究者は身なりを気にしない人が多いけど、それはダメ。人にわかりやすくアピールするのは、論文も服装も一緒。服にセンスがない人に、いい論文は書けませんよ!」(礒野健一)
=地域密着ウェブ「マチゴト豊中・池田ニュース」第60号(2014年2月13日)

更新日時 2014/02/13


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