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能勢街道をゆく⑥ 曽根周辺

西村真琴と魯迅の戦時下の友情を示す三義塚

 旧能勢街道の北上は一休みとし、阪急曽根駅の周辺を少し散策した。まず、駅の西側を歩く。駅から5分も行くと、曽根西町2丁目第1公園がある。その隅に、曽根遺跡の説明板が立っていた。1935年に1800年ほど前の土器が見つかり、1986年と1992年の調査で、弥生時代後期の住居跡、奈良時代後期の大きな建物跡など、弥生時代から中世にかけての遺跡と確認された、と説明があった。
 南に下がって法華寺へ寄った。参道にモミジの木が10本あまり。まだ色づいてはいなかったが、時期になると、美しく飾られることだろう。
 このあたりは道が入り組んでいる。誓願寺に行く道を女性に尋ねると、丁寧に教えてくれ、最後に「お気をつけて」の言葉までもらった。寺の境内に入ると、山門の横の小さな木が気になった。アシビのような小さな白い花が咲き、直径2センチ近くもあるヤマモモのような肌合いの赤い実もつけていた。寺のインターホンで名前を聞くと、女性がわざわざ境内に出てきてくれた。木を見ながら、「いただきものなので、名前はちょっと」と話し、「お役に立てずにすいません」と恐縮する。その態度に、こちらの方が恐縮した。
 少し北に行くと、仏像を納めた堂があった。近くの男性に聞くと、「愛宕(あたご)堂」と呼ばれているそうだ。「昔はたいまつに火をつけ、しし舞いも出るお祭りがあったのだが」と、なつかしんで語った。「どろまい」と呼んでしたそうだが、意味は定かではないという。
 東に歩くと、石垣が残る原田城跡。説明板を読む。「室町時代に書かれた足利季世記に、天文10(1541年)11月、管領細川晴元の家臣、木沢長政が原田城を攻めたという記述がある」。規模は東西90間(160メートル)、南北180間(330メートル)だったそうだ。
駅の東側に足を伸ばした。豊中市立中央公民館に敷地に石碑「三義塚」がある。毎日新聞の先輩記者、西村真琴(まこと)にちなむものなので、時折訪ねてみる。
 西村は北海道帝国大学の教授から大阪毎日新聞(現毎日新聞)の記者に転身した異色のジャーナリストだ。学芸部員だった時に、日本初のロボットを作ったことでも知られる。
 石碑は上海事変(日本軍と中国軍の戦闘)の最中のエピソードにからむ。1932年、西村は中国・上海の郊外、三義里で傷ついたハトを見つけ、「三義」と名づけ、日本に連れて帰った。西村は豊中市穂積(現服部西町)の自宅で、傷ついたハトを、日本のハトと一緒に育てた。しかし、残念ながら、イタチに襲われて死んだ。西村は中国の文豪、魯迅に手紙を送っていきさつを伝えた。西村には、ハトに子が生まれたら、日中友好のあかしとして、魯迅にプレゼントしたいという思いがあったからだ。手紙には「西東 国こそ異(ちが)へ 子鳩(こばと)等は 親善(したしみ)あへり 一つ巣箱に」としたためた。
 魯迅は感激し、1933年6月、七言律詩「三義塔に題す」を作り、西村に送った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」でしめくくっている。意訳すると「荒波を渡って行けば兄弟がいる。会って笑えば恩讐(おんしゅう)は消える」となる。石碑には、この詩が刻まれている。ギクシャクした今の日中関係を反省させるような碑である。
 曽根駅に向かう途中、コーヒーハウス「ポレ・ポレ」で一休みした。「シカ肉カレー600円」とメニューにあったからだ。店の松谷富造さん(73)は以前、料亭をしていた。猟が好きで、獲物を料理として出していたという。シカ肉カレーもその1つだった。コーヒーショップに変わってからも、シカ肉カレーだけは残した自慢の品。松谷さんは「シカ肉は脂肪分が少なく、ミネラルが多い」と、自慢の品を語った。(梶川伸)
=地域密着新聞「ナチゴト豊中・池田」第9号(2010年11月3日)

能勢街道 西村真琴

更新日時 2010/11/09


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