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能勢街道をゆく⑤ 服部~曽根

時代を感じさせる井口建材店の建物

 阪急服部駅で降りると、線路東側に旧能勢街道がある。細い道を北上し始めたが、念のため駅前の村田文具店で聞いてみた。店の女性は親切だった。虫めがねを取り出して地図を調べ、知り合いに電話をかけて、道が正しいことを確認してくれた。
 少し歩いてから街道をそれ、線路西側の純正寺へ寄った。境内に妙見宮常夜灯の道標があるからだ。寺に声をかけると、住職は留守だった。代わりの女性は親切で、資料をコピーして渡してくれた。寺は寛保元(1741)年に創建された。能勢の妙見信仰の隆盛期で、大坂などから妙見参りの講が能勢街道を通過し、服部村は宿場町の観を呈していたという。
 街道に戻って進むと、中豊島小学校の横を通る。校庭の外側に黄花コスモスが咲き乱れていてた。道路沿いに能勢街道の説明板が立っていた。街道は別名、妙見道、池田道、馬道と呼ばれていたことを知る。
 街道は国道176号を東に渡る。そこに豊中市立第四中学校があり、校庭の一角に烏(からす)塚と帰(かえり)塚がある。学校を訪ねると、船曳裕幸校長と守田弘道生徒指導主事が資料をコピーして、説明してくれた。
 資料などによると、平安時代、垂水(現在の吹田市)の岩氏長者が長柄(ながら)橋を造る際、人柱になった時期の話に由来する。福井城山(四中の北側)の娘が長者の家に嫁入りしたが、口をきかなかった。
 夫は妻を母のもとに送り帰すことを決め、天竺(てんじく)川付近にさしかかると、突然キジが鳴き、夫がそれを射た。妻は「物いわじ父は長柄の人柱 キジも鳴かずばうたれざらまし」と繰り返しうたった。そのキジを埋めたのが帰塚、同時に射られたカラスを埋めたのが烏塚という。ただし、違う筋の言い伝えもあるそうだ。
 西法寺、藤井寺(とうせいじ)に参拝した。そばには、6地蔵がまつられている。1956年に曽根東から移された延命地蔵もほこらに収められていた。
 もう1度、国道を西に渡る。西琳寺の前にある「おかげ常夜灯」を写真を撮るためだ。常夜灯には、「岡山村」「「おかげ」「村中安全」「若中」などの文字が読める。
 また街道に戻り、さらに北上すると、時代を感じさせる井口建材店の建物に出会った。庭の手入れをしていた主人に話しかけると、建物の外まで出てきて、「おやじが昭和の初めに造った」と語った。さらに、旧箕面街道との分岐点にある道標の場所を尋ねると、これまた親切に「50メートルほど先」。道標には「右 みのを」「左 池田道」の文字が刻まれていた。(梶川伸)
=地域密着新聞「ナチゴト豊中・池田」第7号(2010年10月4日)

更新日時 2010/10/19


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