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余野街道をゆく・上 池田市・絹延橋~細河小学校

能勢街道との分岐点にある道標

 余野街道は池田市の絹延橋あたりで能勢街道から分かれ、余野川をさかのぼるように進み、久安寺のそばを通って、やがて亀岡街道に合流する。
 阪神高速のビッグハープ(新猪名川大橋)を望む場所に、能勢街道からの分岐点があり、道標が残っている。道標には「右 大聖天道 久安寺」の字が刻まれていて、「是(これ)ヨリ二十五丁」の字も見える。左に行くと、「妙見山 多田神社」となっていた。
 五月山のふもとの細い道を進む。道の横の土が掘り返されている。大きな植木鉢もひっくり返っていた。それを、年配の女性がため息混じりに眺めていた。「イノシシですよ。ミミズを食べにくるんです。主人が生きている時は、植木を育てていたのに、鉢を起こす力もなくてほったらかし」。秋から冬に向かうと、さらに深刻になるそうだ。「山に草がなくなると、毎晩のようにやってくるんですよ」
 やがて紀部神社の前に出る。大きな石の鳥居があり、そのそばに余野街道の案内板が設置してあった。神社の本殿が興味深い。建物は小さいのだが、それを覆う建物があり、正面からは屋根が2層に見える。境内は木々に包まれ、それが五月山の林へと連らなり、うっそうとした森の雰囲気を作り出している。
 案内板にあった松繰寺を訪ねた。俳人、阿波野青畝(あわの・せいほ)の句碑があると書いてあったからだ。庵のような小さな寺だった。尼僧の高畑良圓住職によると、1992年に晩年の青畝を招き、句碑開きをしたという。高畑さんに青畝と寺との、長い歴史を聞いた。
 西宮市に住んでいた青畝は1942年ごろ、池田市の日本画家、樫野南陽に連れられて寺を訪れた。高畑さんは17歳のころの夏だったと記憶している。部屋に上がるように勧めると、「縁側がいい」と断った。そして、「この端居(はしい)うれしと尼に答えけり」の句を作った。「端居」とは、夏に風通しのよい縁側などで涼をとることで、季語になっている。
 青畝はしばしば、この寺で句会を開いた。そのような付き合いの中で、高畑さんは「句碑がほしい」と頼んだ。「手すさびに尼のつくろう垣根かな」。それが石碑に刻まれた句だった。「句としては地味だが、黒い衣を着て、そでをたくし上げ、懸命に手入れをしている姿が目に焼きついているので」と、青畝は話したそうだ。
 せんすにも、句を書いてもらった。「朝涼や わあんゝ(わあんわあん)と尼の鉦(かね)」。繊細な筆使いの句を表装して、大事にしている。
 今回は細河小学校までとした。校庭のフェンスの外側に、イチイの木があった。その横に説明板があり、「古くからこの地にあって、細河小学校の歴史を見守ってきました」と書いてあった。(梶川伸)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第43号(2012年9月13日)

余野街道 絹延橋 紀部神社 松繰寺 阿波野青畝 細河小学校

更新日時 2012/08/22


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