西国街道をゆく② 池田市石橋~箕面市瀬川
前回に続き、西国街道を歩いた。阪急石橋駅から南300メートルの“西国街道踏切”を、今度は北東に歩く。
踏切のそばに道標が立っていて、4面に文字が刻んである。「左 大坂」「右 妙見」「天保二年九月」などの文字が読める。
その横に、旧石橋村の高札跡の説明板がある。高札場は、幕府、奉行所が法令などを掲げた。説明によると元禄3(1690)年の石橋村は、わずか29軒192人だったが、西国街道と能勢街道が交わる要所で、高札場が設けられていた。
説明板の興味深い話しが書いてある。嘉永6(1853)年に、アメリカから黒船が来航した。幕府が防備の強化を命じた7年、石橋村の庄屋、元二郎が江戸に行っていた村の仁右衛門、徳治郎にあてた手紙が残っていて、「異国船が来たと驚いている。旱魃(かんばつ)やほうき星が外国の仕業であると、みんなが評判している」と、書かれているそうだ。
歩き始めると、左側に小さな堂があり、中に石仏が安置されていた。道はうねっている。踏切の西側もそうだったが、これも旧街道の名残だろう。今度は右手に石橋3丁目公園が見え、ここにはちゃんとした堂があった。天井からちょうちんが下がり、奥には石仏。ここは「辻の地蔵」と呼ばれている。西国街道の説明板も立てられていた。
少しだけ国道176号を歩き、石橋阪大下交差点で、国道171号と176号の間の道に入っていく。その入り口で、不動産の大きな広告が目に入った。「合格おめでとうございます」と大書され、その下に部屋の広告が並んでいた。大阪大学の入学者をターゲットにしたものだ。
しばらく歩くと、また地蔵堂に出会う。堂の中には、石仏と五輪塔が並んでいた。水利組合が建立したもののようだ。外には、玉新池弁財天供養塔、無縁仏供養塔、大きな石どうろうの台座もある。無縁仏供養塔には、地唄(うた)の歌詞が刻んであった。「二町八反 池三つ これでやけたら なんと正傳」
171号を少し歩き、阪急電鉄石橋基地のところを左側にそれる。基地には工事用車両が配置してあった。その横を、阪急箕面線の電車が走る。箕面線の踏切を渡る。
水路に沿った道を進むと、左手に箕面川にかかる橋が見える。近くの人に聞くと、今井橋という名前で、「橋を渡ると能勢街道に出る」と教えられた。西国街道は橋を渡らず、右手にとって、箕面市瀬川に入っていく。箕面川では2羽のカモが、頭を水に突っ込み、お尻を出して、餌を探していた。のんびりとした街道歩きの締めくくりには、ふさわしい光景だった。(梶川伸)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第38号(2012年4月12日)
更新日時 2012/03/21