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疑問を聞く⑥ 「くれは」「あやは」

池田市室町7-4にある呉服神社

 池田には、2人の織姫が機(はた)織りの技術を伝えたという伝承がある。伝承に由来する「くれは」「あやは」は、日本書紀応神天皇紀の「阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女を求めしむ。(略)呉の王、是に、工女兄媛、弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与ふ」を題材にしたと考えられている。ただし、漢字表記はさまざまなので、池田市や郷土史家に尋ねてみた。
 織姫が上陸した地点が唐船ケ淵(池田市新町~木部町)、糸を染めた井戸が染殿井(満寿美町)、絹を干したのが絹掛の松(畑)、機を織ったところが星の宮(建石町)、2人が葬られた墓が梅室、姫室(槻木町~室町あたり)、呉織は呉服(くれは)神社に、穴織は伊居太(いけだ)神社にまつられたと伝わっている。
 呉織は「くれ・はとり」と穴織は「あや・はとり」と読むのがどうやら本当らしく、特定の人名ではなく呉の機織の意味のようだ。池田市史など市が伝承を記載する場合は「クレハトリ・アヤハトリ」とカタカナ表記することにしている。
 現在、「くれは」には「呉織」「呉服」「呉羽」の漢字表記がある。呉服神社は、祭神を呉織で示し、「くれはとり」と呼んでいる。呉服神社は摂津名所図会(1798年)には「呉織社」と記され、呉江奇覧(1814年)には「呉服社」とある。神社によると、いつごろから呉織が呉服の字に変わったのか正確なことは、分からないという。
 「呉羽」は1937年に開発が始まった住宅地「呉羽の里」に使われた。池田が「呉服の里」と呼ばれていたことから、開発業者が名付けたようだ。「呉庭」という表記もあった。現在の宇保町あたりで、河内の坂上正任が開発領主となった荘園を「呉庭荘」と名付けた。「呉庭」を「くれは」と読んだとか読まないとか。
 「あやは」を示す漢字には、「穴織」「漢織」「綾羽」がある。穴織宮とも言われる伊居太神社の擬宝珠(ぎぼし)には「1604年 穴織社」とある。日本書記雄略天皇紀にも織姫の伝承が記されているが、こちらには「漢織」の文字が見える。穴の字をあてるのは漢氏の出身地「あな(安那)に由来すると考えられる」とも。
 綾羽、呉服町の町名は、伝承に由来した当て字のようだ。取材してもややこしく、結局はよう分からん。(進藤郁美)

更新日時 2012/08/09


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