能勢街道をゆく⑱ 池田市建石町~ほんまち通り
今回は池田市の中心部を紹介する。まず立ち寄ったのは、天保12(1841)年創業の菓子店「福助堂」で、「めんも坂」と呼ばれる場所にある。5代目店主の樋口芳宏さんが、資料をわざわざ出してきて話してくれた。
江戸時代のめんも坂は、今よりも北へ半円形に張り出し、階段状になっていた。そこにあった旅館・料理屋「めん茂楼(ろう)」が、名前の起こりだと伝えられている。当時は急な坂で、「道路面は今の店の2階の高さだった」と、樋口さんは話す。めんも坂のいわれについても、「めんも桜と呼ばれる桜があって、それが由来という説もある」と説明してくれた。
大正時代に新しい道路ができ、その際に店を移転したそうだ。「店ごと引っ張ったと、4代目に聞いている」とか。
阪急の創始者、小林一三が近くに居を構えてからは、「おなごし2人と一緒によく食べに来た」そうだ。好物は、創業以来の味を引き継ぐ大福餅。店内には画家、小磯良平が1954年に描いた小林の肖像画が飾られていた。
福助堂から左に入ると、法園寺がある。その横は狭い坂道になっていて、「牛追い坂」と呼ばれた。めんも坂は階段状になっていたので、牛に引かせた荷車が法園寺横の坂を通ったため、この名があるという。
街道はほんまち通りに入る。所々に「まちかどギャラリー」と名づけられた小さな展示ケースがあり、絵を楽しめる。池田市や個人が所蔵している絵を展示している。
サカエマチ商店街との角は昔、「井戸の辻」と呼ばれ、江戸時代の高札場だった。その角を少し北にそれると、板塀と黒塗りの壁が特徴的な大きな酒蔵が見える。酒造会社の「呉春」だ。蔵の女性に精米所や倉庫の場所も教えてもらった。一帯が酒蔵通りとなっている。
さらに北へ行くと、登録有形文化財の稲束家。説明板によると、1700年代中ごろに建てられた。稲束家は元禄年間(1688~1704)は甲字(麹=こうじ)屋という問屋で、その後は酒造業も営んだ商家。文化サロンの趣を呈し、江戸時代の思想家の頼山陽、自由民権運動のリーダーだった板垣退助、俳人の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)らが出入りしたと書いてある。
ほんまち通りに戻ると、石と赤レンガを積み上げた2階建ての近代洋風建築が目に入る。1918年建築の旧加島銀行で、これも登録有形文化財。今はインテリアの河村商店が入っている。店の中で、河村武彦さんに話を聞いた。「銀行が池田駅前に移ったのを機に、40年ほど前にこの建物に入った。天井が高いので夏は涼しい。ほとんど冷房なしに生活している。冬は暖房があんまりきかん。文化財に指定されたので、大事にせなあかん」。設計は辰野片岡建築事務所で、東京駅や大阪市中央公会堂を手がけた辰野金吾がかかわった。
河村商店は50年ほど前、学校給食のエプロンの製作、納入の仕事を始めた。「もともと食品会社に勤務していて、給食の食品を納入していたのが、その仕事を始めるきっかけになった」と、河村さんに聞いた。
ほんまち通りは落語みゅーじあむ、大衆演劇の呉服座など、風情のある街並みが続く。(梶川伸)
更新日時 2011/07/14