心にしみる一言(257) 背広とネクタイを貸して
◇一言◇
背広とネクタイを貸して
◇本文◇
森永ヒ素ミルク中毒の問題は、私が毎日新聞に入った1970年ごろ、再びクローズアップされた。粉ミルクの製造過程でヒ素が混入した出来事だったが、飲んだ赤ちゃんが思春期を迎える時期に、また問題点が浮かびあがったからだった。
初任地の和歌山では、龍神村(現在は田辺市)出身の教師、寒川(そうがわ)利朗さんが被害者の救済活動に身を投じ、その後、救済機関「ひかり協会」の部長になった。教え子が被害者と知ったのがきっかけだった。その寒川さんが亡くなり、追悼文集が出ることになった時、原稿を頼まれた。寒川さんに、取材をさせてもらったことを知っている人がいたからだろう。パソコンをさわっていたら、その時の原稿が出てきた。
寒川さんに紹介された被害者を何人も訪ねた。ある被害者は、お母さんと2人暮らしだった。脳性マヒとの重複障害で、話すこともできず、寝たきりの状態だった。その枕元でお母さんが言った。「一緒に赤飯を食べてください。今日、初潮があったんです」。泣きながら口にしたことを、今でも鮮烈に覚えている。
寒川さんとは、楽しい酒を飲んだ。龍神村を訪ねたこともある。時を経て、お互いに大阪が職場になってから、酒の付き合いがまた始まった。
居酒屋を出てから、寒川さんを無理やり我が家に誘ったことがある。家でも飲み、結局泊まることになった時、寒川さんが言った。「かじさん、背広とネクタイを貸して」
翌日は厚生省(現厚生労働省)との交渉の日だったのに、ラフな服装だったからだ。寒川さんと私では、背は私の方が高いが、横幅は寒川さんの方ががっしりしている。背広が合うわけがない。妙ちくりんなスタイルも気にせず東京に向かったが、そんなところが寒川さんらしかった。
(梶川伸)2020.09.15
更新日時 2020/09/15