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心にしみる一言(252) 生徒は4階屋上で1晩過ごし、助かったが、近くの避難塔では何人も亡くなった

気仙沼向洋高校

◇一言◇
 生徒は4階屋上で1晩過ごし、助かったかったが、近くの避難塔では何人も亡くなった

◇本文◇
 東日本大震災の被災地を初めて訪ねたのは、発生から3年たった2014年だった。仙台での仕事をすませ、4日間だけ宮城県と岩手県南部の海岸沿いを回った。8月20日すぎの暑い時期だった。
 1日目に行ったのは宮城県南三陸町だった。志津川の仮設商店街で話を聞いていると、宮城県気仙沼市の人に出会い、訪ねる場所を2個所教えてもらった。
 翌日、列車の軌道も走るバス「BRT」に乗って気仙沼へ。教えられた場所をタクシーで回った。運転手さんは地元の人で、当時のことを聞くことができた。
 まず向かったのは気仙沼向洋高校だった。廃墟となった校舎を前にして、運転手さんは語った。
 4階建ての校舎は被害を受けたが残った。生徒は4階屋上で1晩過ごし、助かったそうだ。近くには避難塔がある。そこは校舎よりも少し高いように見えたが、ここで何人か亡くなったという。民家の2階にいて助かった人、逆に逃げたところで亡くなった人もいる。「ほんのちょっとした状況の違いが生死を分ける」
 運転手さんはさらに語る。「何度も津波を体験した。(東北大震災の前の)前回は3~4メートルの予測で、50センチしか来なかった。そんな体験もあり、これほどの津波が来るとは思っていなかった。それが一般的な感覚だった」
 運転手さん自身は、タクシーに乗っていた。国道が込んでいるので、山の方を回る道に車を移動させたので、難を逃れることができたという。
 前日に教えてもらった2つ目の場所は、リアスアーク美術館だった。気仙沼の高台にある。実はここへ行く道を、運転手さんが震災当日に走ったのだった。途中の学校のグラウンドには、仮設住宅が並んでいた。阪神大震災で見た光景と同じだった。違うのは3年半近くたってもなお、という点だった。
 美術館では震災の展示がされていた。ほとんどが写真。ただし、津波に襲われている時の写真は1枚しか気づかなかった。大半は爪痕だった。ほかに船の残骸や、携帯電話、カメラなど、犠牲者や被災者の持ち物だった。携帯電話の説明を読むと、電話をかけながら、その人は津波にのまれたらしい。相手は家族だろうか。津波に流されていく様子を、電話を通して聞いていたとは。(梶川伸)2020.08.21

更新日時 2020/08/21


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