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心にしみる一言(247) 1300人が40人に

志々島の埋め墓

◇一言◇
 1300人が40人に

◇本文◇
 瀬戸内海の島を次々訪ねた時期があった。1996年から97年にかけての時期だった。
 島に取材に行くにあたっては、「シマダス」という本を参考にした。本によると、瀬戸内海には人が生活している島が約150あった。ほとんどの島は、人口が減っていた。過疎化の流れは、島では特に目立った。
 香川県の志々島を訪ねたのは1997年8月だった。暑い日だったので、泳ぐ場所を訪ねた。お年寄りの女性は、「中学校のそばがいい」と教えてくれた。しかし、中学校はとっくの昔に廃校になっていて、校舎も残っていない。
 別の人に聞くと、「埋め立てで、砂浜がなくなってしまった。島の反対側にいけば砂浜があるが、道がわからんようになっとる」と話した。人の生活の跡すら、次第に消えていく。
 元教諭だという男性に、島の話を聞いた。その中で、取り上げた言葉が出てきた。それを詳しく書いてみる。
 ―――昭和30年ころには、1300人ほどが住んでいた。明治時代にタイ網の網元がいて、たくさんの人が島に働きにきたという。それがいまは40人余りの人口になってしまった。
 島の人が亡くなると、海辺に土葬する。ここは埋葬の墓で、拝むたの墓は別に寺の近くにあった。そんな風習を、両墓制という。
 埋め墓は木製で、家を形どっている。別の島で見たものは、屋根をつけただけの簡単なものだった。志々島はもっと手が込んでいる。壁の部分があり、扉をつけたものもある。青い屋根が多い。スダレをつけたものも目立つ。花がかれないようにするためだという。
 島の暮らしは裕福ではない。質素な家も多いが、「亡くなった後は立派な家に」の思いが、家型の墓になったのではないか。
 訪れた時は朝だったので、何人もが墓や花の手入れをしていた。墓の数は多い。人が多くにぎやかな時期の名残だろう。改めて調べてみると、2015年の人口は18人となっていた。(梶川伸)

更新日時 2020/07/20


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