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能勢街道をゆく⑪ 豊中~蛍池

豊中グラウンドのメモリアルパーク。この場所は旧グラウンドの正門前にあたる

 豊中駅からスタートした。旧能勢街道は駅の東側を行くが、今回は駅の西側で新能勢街道と言われている道を北上した。しばらく歩くと、豊中グラウンド跡地の表示があって、小さなメモリアルパークになっている。
 説明板によると、豊中グラウンドは箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が建設し、1913年に完成した。140メートル四方の綿畑を造成し、球場には木製の応援団席も設けた。その後、住宅地として分譲した。パークは当時の球場の正門前にあたる。
 この球場で1915年、第1回中等学校野球大会が開かれた。高校野球大会の発祥の地である。パークには、主催した大阪朝日新聞の社告が金属板で展示してある。「野球技の一度我国も来りてより未だ幾何(いくばく)ならざるに 今日の如き隆盛を観(み)るに至るは同技の男性的にして而(しか)も其(そ)の興味と其の技術とが著しく我国民性とさるに依(よ)るものなるべし 殊(こと)に中学程度の学生の間に最も普(あまね)く行はれつゝありて……」と書かれている。
 その横には、「球史ここに始まる」と刻まれ、当時の村山龍平・大阪朝日新聞社長の始球式のレリーフがはめ込まれている。レリーフには、荒木寅三郎・審判長らの姿もある。
 第1回大会には、全国から10校が参加し、京都第二中学が優勝した。翌年の第2回大会は慶応義塾が優勝。第3回からは兵庫県西宮市の鳴尾球場に舞台を移し、さらに甲子園が開催球場になる。
 パークのすぐ前に住む女性に話を聞いた。10年ほど前に越してきたのだという。「高校野球の時期になると、選手らが訪れて、記念写真を撮っていく」。高校野球関係者には、まだ忘れられていないのだ。
 さらに進むと、久保公園の横を通る。池があり、水遊びの水路のある公園で、寒い時期にもかかわらず、子どもの姿が見られたのがうれしかった。千里川に突き当り、新能勢街道からそれて堤防上を西に行くと、箕輪橋の付近が親水公園になっていた。堤防上には椅子が置かれ、そばには4本の梅の木が植えられ、うち3本が花をつけていた。堤防下には超光寺があり、境内に親鸞(しんらん)の像が立っていた。
 蛍池駅に近づくと、阪急の線路に沿って古墳のような小山が見えてくる。地図によれば御神山古墳らしいが、周辺の人に聞いても、古墳だと知っている人には出会わなかった。
 蛍池のすぐ西側に、麻田藩陣屋跡の大きな石碑があった。麻田藩は青木氏が藩主の外様大名で、石高は1万石。文久3(1863)年の記録によると、家臣は110人余を数え、御殿のほか、会議場、柔剣道場も設けられていたという。(梶川伸)
 

豊中グラウンド 中等学校野球大会

更新日時 2011/02/20


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