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能勢街道をゆく⑩ 岡町~豊中

高木家の外観。土蔵からは天保時代のくぎが出てきた

 岡町駅からの能勢街道は、おおざっぱに言えば、線路の1本東側の道を北上する。このあたりは、歴史を積み重ねた家が点在している。
 道の左手にある村田たばこ店もその1つだ。2階建ての2階部分は背が低い。壁はモルタル塗りで、だ円形に近い窓があり、縦に格子が入っていて風情がある。
 店の女性に家の古さを訪ねると、「どちらからか移したみたいだけど、どのくらいたった家なのか、私はわからない」との答だった。100年以上はたっていそうで、女性は「南側に傾いているんですよ」と苦笑いした。廊下がなく、部屋はふすまで仕切られているだけなので、個室がないと言う。そのためか、「不便このうえなく、子どもには評判が悪くて」と、古い家の悩みを語った。
 少し歩くと、今度は右手に良本酒店。ここも古い。店の主人によると、もとはしょうゆの醸造をしていた。本家は酒蔵だったそうだ。今はいずれも姿を消し、酒の小売店として店が続いている。「建物は明治のものと思われるが、夏は暑い。冬は寒いし、底冷えがする」と、ここでも古い家の悩みを聞いた。
 1本道路を渡ると、またまた古民家が目に入る。そこに住む高木秀尚さんによると、土蔵を改修した際に、天保年間(1830~44年)のくぎが使われているのが分かったそうだ。そのため、住宅の方も少なくとも明治の初めか、もっと前に建設されたと、高木さんは推測する。
 会話の中で、高木さんは「豊臣秀吉が有馬の大茶会の時に能勢街道を通った」「ひいじいさんが会津の戦い(戊辰=ぼしん=戦争の1局面、1868年)に行った」などと語る。いかにも能勢街道での立ち話らしくて、うれしくなった。
 街道をそれて東へ行き、桜塚高校の前で足を止めた。グラウンドの壁の一部は、前身の旧豊中高等女学校時代が創設された1938年当時のもので、国の登録有形文化財になっている。
 茶色のれんがを16段積み重ねて柱にし、その間をコンクリート板がつないでいる。コンクリートには、桜の花の透かし穴が開いていて、れんがとの組み合わせが何とも愛らしい。桜のデザインは、桜塚の地名や、豊中高女の校章からとったものだ。説明板が設置されていて、校庭で体操をする女学生、防空頭巾を女学生の写真があしらってあった。
 1973年から79年にかけて新校舎を建設した際、北側と東南コーナーの塀が保存された。昭和初期の女学校の雰囲気が残っている。れんがは高さ112センチ、幅35センチ、奥行き31センチ。大阪窯業(ようぎょう)、岸和田煉瓦(れんが)、讃岐煉瓦(香川県観音寺市)のものだと説明板に書いてあった。
 街道に戻り豊中駅に向かうと、駅の手前に堂があり、栄地蔵と名づけられた石仏が4体安置されていた。堂の前の石柱が立っていて、1954年に建立されたことがわかる。近くのたばこ屋の女性にいわれなどを聞いた。「このあたりは昔、お墓だった。掘ったら石仏が出てきたので、おまつりしたと聞いている。みんなが栄えるようにと、この名前をつけたのだろ。自分の娘みたいなもので、何かとお願いをする。みんなを守ってくれるし、この地蔵のおかげで、このあたりは交通事故もない」。地域に溶け込んだ地蔵になっているようだった。(梶川伸)
=地域密着新聞「ナチゴト豊中・池田」第15号(2011年2月3日)

旧豊中高等女学校

更新日時 2011/02/07


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