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能勢街道をゆく⑧ 岡町周辺Ⅰ

重要文化財に指定されている原田神社の本殿

 岡町は旧能勢街道の中間点としてにぎわった場所である。時代をさかのぼった風情が、街のあちこちで見られる。
 今回は岡町駅の東側を歩いた。駅前の商店街から能勢街道を南へ少し引き返すと、2階建ての建物を通り抜ける10段ほどの石段がある。下りて行くと路地になっていて、共同住宅が路地を挟んで向かい合っている。下りて行くと、そこは路地になっていて、共同住宅が路地を挟んで向かい合っている。かつて「十軒長屋」とか「タニマチ長屋」と呼ばれた場所である。
 資料によると明治の初め、滋賀県の藤谷茂助が能勢の妙見参りの際に岡町を通り、そのにぎわいを見て、かじ屋を始めた。よく繁盛したので、暮らしに困っている人のために長屋を造ったのが始まりという。
 「タニマチ」の由来については、能勢街道から少し低い谷にあたるような場所に建てられたからという説や、大阪市中央区の谷町筋に同じような造りの長屋があったからという説がある。
 冨田美代子さんは2002年に移り住んだ。「81歳になったが、ここは駅に行くにも買い物に行くにも便利で、年寄りにはもってこい」と、そこでの生活を語った。
 もう1度北上すると、商店街に接して原田神社がある。石の鳥居をくぐって境内に入る。この鳥居には、貞享5(1688)年の銘が入っているという。社記によると、天武天皇の時代に創建された。最盛期は現在の吹田市から尼崎市まで72村の総氏神だった。
 現在の本殿は慶安5(1652)年に建てられた。全国的にも珍しい五間社流造(ごけんしゃながれづくり)という建築様式で、重要文化財に指定されている。高畠光典宮司は「彫り物など、丁寧な仕事が施されている」と話す。
神社では悪疫退除のため、獅子(しし)頭を奉じ、獅子舞いのようにして氏子の村を回る神事が、天養2(1145)年まで続いた。今でも毎年10月2~8日、神社に近い地区を回っている。獅子頭について高畠宮司は「天保、元禄のものと、それよりも古い3つの頭が残っていて、それを使う」と言い、話に歴史の重みがある。
 商店街と能勢街道の交差する場所に、うどん屋「土手嘉」がある。店の主人の畑宏年さんは8代目なので、ここも古い。初代は嘉助という名で、周囲に土手があったことから「土手嘉」という屋号になったそうだ。酒蔵や八百屋のども営んでいたらしい。
 建物は昭和元(1926)年の建造で、黒壁と格子のたたずまいが、時を止めて、昔のにぎわいをしのばせる。外から見るショウケースには、古いきせるなどが展示してある。「祖父のものや、店で使っていたものを見てもらおうと思って」と畑さん。
 畑さんは「原田神社のお百度石は、先祖が奉納したようだ」と教えてくれた。神社に引き返すと、石には「八百屋嘉助」と刻まれていた。時が流れても、江戸時代がそこにあった。
能勢街道を少し北に進むと、説明板が設置されている。このあたりは近代になってもにぎわいは衰えず、芝居小屋や映画館もあり、「ここにくれば何でもそろう、と言われた」と書いてあった。
 少し東の瑞輪寺へ。境内の一角に、石碑「西吟(さいぎん)之塔」が建っている。西吟とは江戸時代の俳人、水田西吟のことである。西山宗因に師事し、井原西鶴にも学んだ。岡町に落月庵を結び、上島鬼貫(おにつら)などと交わった。その死後、宝暦2(1752)年に門人たちによって建てられたのが、この石碑だ。「寝て居よが起きて居よが花の春」の句が、説明板に紹介されていた。
 岡町駅に戻る途中、商店街の中の本屋「マイブックス」に寄った。店主の木村勝さんは手塚治虫のファンで、店の2階を手塚治虫生誕資料室とし、約1000冊の本などを展示している。手塚は1928年、豊能郡豊中町(現豊中市)の生まれで、木村さんはその足跡を調べている。岡町は時の流れの中で、いくつもの物語が重なり合っている。(梶川伸)
=地域密着新聞「ナチゴト豊中・池田」第14号(2011年2月1日)

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更新日時 2011/01/12


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