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心にしみる一言(100) 死者の冥福を祈るとともに、私たち夫婦の幸運を皆に還元したい

海から見た高松

 5月11日。ピンとくる人は、ほとんどいないだろう。1955年のその日、午前6時40分、濃霧の高松港を出航した連絡船「紫雲丸」の右げんに、僚船の第三宇高丸が右げんに突っ込ん。紫雲丸は出航から15分後に沈没し、168人が死亡した。犠牲者の大半は、小中学校の就学旅行生だった。その惨事が、瀬戸大橋建設への1つのきっかけになった。
 高松で勤務したのは、1988年に瀬戸大橋が開通して10年たったころだった。毎日新聞高松支局の近くで喫茶店を開いていた尾路義文さん、ヨシヱさん夫妻はその年、毎月11日に友人や知人20~30人を招き、食事を振る舞ていた。
 尾路さん夫妻は、仕事で岡山に向かうため、紫雲丸に乗り合わせた。義文さんは、泳げないヨシヱさんに救命胴衣を着せ、2人で海に飛び込んだ。義文さんの体は、水底まで着いたというが、奇跡的に2人とも助かった。第三宇高丸の救命ボートに引き上げられたのだが、甲板には遺体がマグロのように並んでいたという。
 2人にとっては、終生忘れることのできない日が5月11日であり、忘れてはならないという思いが、毎月11日の食事を振る舞うことのつながっていた。その年からさらに20年たつ。紫雲山のふもとに店はあった。その後は訪ねたことはないが。(梶川伸)2017.04.20

更新日時 2017/04/20


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