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もういちど男と女(44) 船出

切り絵=成田一徹

 150万円をひねり出して、女は世界1周の船旅に出た。定年まで2年を残し、仕事をやめてのことだった。過去を振り払い、新しい人生の船出にするつもりでいた。
 結婚生活は悲惨だった。夫の女性問題が原因で離婚した。しかし、2人の子どもの将来を考えて、再度結婚した。夫はまた浮気をし、2度目の離婚となった。
 懸命に働いて子どもを育て、母の面倒を見た。人生の後半にやっと、小さな灯台を見つけた。高校の同級生に再会し、船を降りれば、彼のもとに行く。もらった指輪をして、船に乗った。
 シンガポールを過ぎたあたりだった。船内のバーで、男と出会った。年齢は一回り上だった。クルーズのメンバーは1000人もいて、2人が顔を合わす機会は多くはなかったが、会えばバーに行った。
 地中海に入り、ロンドンのオプションツアーに参加する人の顔合わせがあった。ホテル代を抑えるため、ツインの部屋が用意され、ルームメートを決める場だった。2人はそこで一緒になった。
 「男女の組み合わせでもいいの?」。男は冗談で聞いた。「本人同士がよろしければ」と、担当者が説明した。「どう、一緒に。この年だから人畜無害」。冗談の延長線上の誘いに、「いいわよ」と女は軽く応じた。
 ホテルで、男は求めてきた。女は拒まなかった。旅には解放感があり、しかも100日間と長い。普段とは違う日々の中でのできごとだった。
 男は最後の交わりができなかった。それでも、1度肌を合わせると違った。船で男は個室、女は4人部屋だった。女は男の部屋を訪ねるようになった。持参したオカリナを吹き、ベッドの中では自分の過去を語った。
 交わりはできればいいし、できない時も、抱かれているだけで安心感があった。ただ、船の中だけの関係だと、繰り返して言った。
 日本に帰り、横浜港で女は降りた。男は神戸港まで乗った。デッキと桟橋での別れは、感情を高ぶらせる舞台装置だ。
 男からファクスが届いた。同級生のもとへ行くのを、思いとどませる内容だった。母親をどうするのか、経済的に問題はないか。いくつもの理由をあげていた。女は彼と一緒になるのを断り、指輪を返しに行った。
 2人は時々会う。男には年齢のコンプレックスがある。精力剤も試してみる。達した時に女は言った。「効果があったね」。それは、自分のことでもあった。
 2人は一緒になる踏ん切りがつかない。一方で、男は妻の13回忌をすませ、区切りをつけた思いもある。横浜から神戸までのガランとした船が、無性に寂しかったことも忘れていない。女は本当の船出を待っているが、まだ船は停泊している。(梶川伸)=2007年3月24日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2015.04.01

更新日時 2015/04/05


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