もういちど男と女(39) こま切れ
「お母さん、きれいになったね」。娘に言われて、女はドキッとした。60歳を過ぎての恋を、感づかれた気がして。
夫は急死した。洗濯の最中、少しグッタリしているのが気になった。声をかければよかった。洗濯物を干し終わると、すでに亡くなっていた。
大学生の息子、高校生の娘を抱えていた。がむしゃらに働いた。本来のピア教師のほか、ダンスや琴も教えた。
「灼熱(しゃくねつ)の恋がしたい」。そう思うことがあったが、余裕のない生活だからこそだった。娘が結婚する前の晩も、「お母さんもいい人見つけようかな」と話した。娘には、「何で」と一蹴(いっしゅう)された。
半年前、あるパーティーで男と会った。友人から、「すごい人なんよ」と紹介された。何がすごいのか興味がわき、名刺を交わした。携帯電話の番号も伝え、「電話してくださいね」と頼んだ。
電話があった。「約束は守るので」と男は語り、「お茶を飲みましょう」と誘った。2人の最寄り駅が同じで、駅ビルの2階の喫茶店で会った。
男は6歳上だった。家庭もあった。仕事で全国各地はおろか、海外まで飛び回る忙しい人だった。「すごい」とは、このことだった。
小1時間ほど話し、歩いて家に帰った。その途端、電話が鳴った。「無事に着きましたか」。男の気遣いと優しさに、胸がキュンとなった。
2、3週間に1度、駅の上の喫茶店で会う。男は多忙で、いつも小1時間で別れる。「つかみどころのない人ですね」「僕の星座はコンニャク座だから」。気転の利く男との会話は楽しい。
女はおどけて、京都弁を交えて聞いてみた。「私が1人暮らしやから、後くされがないと思うて、遊んでるだけやおまへんか」。男は言った。「そんなこと考えてんのか」。その言葉で本気だと信じることにした。
電話は毎晩のようにある。電話だと甘い会話になるのが不思議だった。「私のこと好き?」「好きだから、声が聞きたくて電話してるのに」
1度だけ夕食に誘われたことがあった。店を出て、女は自分の方から腕を組んで歩いた。男は知らん顔だった。「肩でも抱いてくれればいいのに」。女は不満だった。
女はキーボードをプレゼントされた。娘が里帰りして見つけ、「もらったの?」と尋ねた。「優しい人なのよ」と答えた。「フーン」。それが娘の反応だった。いよいよ恋を見透かされたようだが、母よりも女でいようと開き直り始めた。
女はサインを送る。「私への思いを書いて持って来て。忘れたら居残りをさせる」「こま切れの逢瀬(おうせ)より、ゆっくりとドライブをしたい」。互いの時間が合わず、居残りもドライブも実現していない。しかし、今年こそはと期待をかける。(梶川伸)=2007年2月17日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2015.02.11
更新日時 2015/02/12