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もういちど男と女(42) 右と左 

切り絵=成田一徹

 男の左ひざと、女の右ひざが触れ合った。狭い居酒屋のカウンターの下で、見られることはない。2人とも、ひざを動かそうとはしなかった。
 男は定年を、意識せずにはいられない年に近づいていた。離婚して独り暮らしには慣れていた。別れた妻と話すことはないが、寂しくなると大学生の息子に電話して、近況を聞いた。
 女とはボランティア活動で知り合った。20歳以上も年下だった。仕事についての相談を受けたのが縁で、飲みにも行くようになった。女は付き合った男性と憎み合って別れた後で、話しを聞いてくれる人もほしかった。
 膝の感触で、互いの気持ちを推し量った。居酒屋ではいつしか、1つの料理を2人で食べるようになった。別々の飲み物を頼むと、勝手に相手のグラスを口に運んだ。互いに気を許すと、仲が深まるのは早かった。
 女は感情に素直だった。夜道を歩いていると、女の唇が男の唇に飛んできた。気分が高まると、着ているものをかなぐり捨てるようにして、男の胸に身を投げかけた。男は夢見心地だった。
 女はいつも、男の左側にいた。歩く時もそうだった。右肩にかけていたバッグを左肩に移し、右手を伸ばしてきた。電車の中では、眠たくなると、男の左肩に頭を乗せた。ベッドの中では、男の左腕を枕にもした。居酒屋のカウンターの座り方も決まっていた。
 男にとっては、思いもよらない時間が流れていった。しかし、2人の年齢のことが、頭から離れることはなかった。女はいつかは去っていく。女にふさわしい男性が登場するまでのことだと分かっていた。
 「親にそれとなく話してみた」。女は唐突に言った。当然、親は聞く耳を持たなかったという。年の差、再婚、子ども。その3つは、親には許せないことだった、と語った。「親の愛情の大きさも、改めて感じた」
 いつもの居酒屋のカウンターだった。女は男の右側に座って、淡々と話した。「そうだろうなあ」と男はうなずき、その時が来たと悟った。女からの電話が少なくなった。男も電話をかけるのがためらわれた。
 男は出張のついでに、休日を利用して信州を少し歩いてみた。土産物屋に寄り、木のブローチを買った。手彫りして色づけされた小さな花が可愛いと思った。
 帰ってくると、男は携帯メールで女をいつもの居酒屋に呼んだ。信州の話をし、右側の女に土産の小さな包みを差し出した。女は喜んだ風でもなく受け取り、箱の中からブローチを取り出した。彫られた花が、勿忘草(わすれなぐさ)とは気づかなかった。
 しばらく飲んで、男は駅まで送った。女は「さようなら」と小声で言い、改札を入ると、振り返ることはなかった。(梶川伸)=2007年3月10に掲載されたものを再掲載2015.03.14

勿忘草

更新日時 2015/03/14


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