もういちど男と女(43) 髪
ビートルズのレコードを聴きながら、男は青春時代を過ごした。特に「シー・ラブズ・ユー」や「オール・マイ・ラビング」といった初期のシンプルなメロディーの曲が好きだった。
その時代の若者同様、男も髪は長かった。会社に入っても、そのスタイルは変えなかった。転勤の際は、同僚がヘアバンドやバンダナを贈ることもあった。
床屋や美容院には行かなかった。散髪は自分でするか、妻に任せていた。髪型はそれほど気にしないから、素人のカットでもよかった。
役職に就いたころ、女と出会った。遊び仲間の飲み会に、友人が連れてきた。女はまだ仕事に就いて間もなく、ビールをつぐ慣れない手つきが初々しいと感じた。
遊び仲間には面倒見の世話役がいて、毎年のように忘年会を開いた。男が女と会うのは、忘年会の時ぐらいだった。男は年に1回のその機会が楽しみだった。ときめきとは、こんな気持ちなのかと思った。いや、人生の後半に入った男の、若さへの憧れだったのかもしれない。
その年の忘年会は盛況だった。20人も集まり、温泉で1泊した。翌日、男は友人のマイカーの後部座席に乗せてもらって帰った。隣に女が座った。景色を見ながら、雑談が続いた。初めて2人だけでしゃべった時間だったような気がした。
「長い髪ですね」。女はそう言って、男の後ろ髪のすそを触った。男はゾクッとした。髪にも神経があるのだろうか。うなじから走った感覚は、大切な記憶として体が覚えてしまった。
髪が風に吹かれる感触を、男は好きになった。髪には何もつけていない。年のせいで、髪は細くなってきた。だから風に遊ばれる。
春風や秋風は特に心地よい。地下鉄のホームにいて、列車が入ってくると風が起きる。そんな人工的な風でさえも、記憶を呼び覚ませた。
2人が会う機会は少ないが、会うと髪が話題になることもある。「また伸びましたね」。話題になれば、髪に手が伸びることもある。
出会って20年近くになる。その間に、女が髪に触れたことが4回あった。男はそのすべてを覚えている。逆に、男が女の体に触れたことはない。
女と出会ってから、男は必ず自分の手で髪にはさみを入れるようになった。年とともに、髪が少なくなっていくのを実感するのは寂しかった。
わずか3人で忘年会をしたことがあった。焼酎を飲ませる小さな店だった。女は隣の席にいた。
男は散髪した直後だった。「髪を切ったんですか」。女はいたずらっぽく後髪をもて遊んだ。ピクッと、体が小さく反応した。男は気づかれるのを避けるため、急いで焼酎のグラスを手にした。(梶川伸)=2007年3月17の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2015.03.25
更新日時 2015/03/25