もういちど男と(31) 真珠婚
男は突然、家を出た。
その日は日曜日だった。男はポツリと言った。「1人になりたい」
前夜、男の帰りは遅かった。心配した女が携帯電話を鳴らしたが、応答はなかった。それが予兆だったのだろう。
夕食の最中、男はまた蒸し返した。息子が怒った。「親父、冗談でも言ったらあかん」。しかし、男は言い放った。「出て行くわ」
男はたんすから服を出し、紙袋2つに詰めた。「行かんといて」と女は紙袋を引っ張ったが、男は振り切った。
似たような過去があった。仕事が終わるとすぐに帰宅する男だったが、次第に帰りが遅くなった。最終電車で帰った時、女は問い詰めた。
「好きな女性ができた。お前と別れて結婚したい」。それが返答だった。ところが、両方の親や仲人が乗り出すと、すぐにあきらめた。
相手の女性は結婚していた。その夫から手切れ金を要求する電話が続いた。脅しに近いものだった。女は悲しんでいる間がなかった。夫とは、電話に対する戦う同志という奇妙な構図ができた。
10年ほどして、2度目があった。また帰宅時刻が不規則になった。真っ赤な顔で帰ってきた。電車の中で飲んだという。酒が弱いのに、そんなはずはなかった。問いただすと、1回目と同じだった。「別れて、相手の女性と結婚したい」
前とは別の女性だった。親を呼ぶと、その日のうちに「分かりました」と謝った。女性からの夜中の電話に悩まされた。2度の危機を乗り越えての結婚生活だった。
女は家族の安定の方に重きを置いた。男が普通の生活に戻れば、過去を振り払った。
今回は様相が違う。女性の影が感じられない。「死んでも帰らない」と言うが、理由がはっきりしないのがもどかしい。
女は推測する。「罪悪感から私に頭が上がらないのが嫌なのか」「自分が捨てられるという恐怖感があるのだろうか」
ある日、息子に電話が入った。「どこか遠くに行って住む」。離婚ばかり求めていた男が、初めて弱音をはいたように女は感じた。
別居をして2年もたっていたが、女は毎日、手紙を送ることにした。「帰ってきてほしい。離婚する気はない」と、2カ月も書き続けている。
男の誕生日には、電気カミソリを贈った。すぐに送り返されると思った。そうではなかったことに、希望を託した。
1週間後の真珠婚式の翌日、希望を砕かれた。誕生日カードと一緒に電気カミソリが返ってきた。「これ以上は手紙を送ってきても処分する」。手紙が同封されていた。
それでも女は、手紙を送る。愛想はつきているが、帰ってくれば、また普通の生活をうまくやれると信じようとする。(梶川伸)=2006年12月2日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2014.12.12
更新日時 2014/12/12