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もういちど男と女(29) 2階

切り絵=成田一徹

 再婚が決まると、男は「どこに住む?」と尋ねた。女は言った。「この家に私が住みます。模様替えはしますが」
 明るい日差しの2階建ての家だった。そこで、男の亡くなった妻は晩年を過ごした。
 彼女は乳がんになり、左の乳房を切除した。やがて、右も切ることになった。それだけではなく、がんは骨髄にも移った。体は衰え、車椅子の生活になった。それでも、夫と見つけた家に住むと言った。
 男は家を改造した。スロープをつけ、段差をなくし、手すりをつけた。トイレの戸も、逆向きに開くようにして、使い勝手をよくした。しかし、抗がん剤も効かなくなり、救急車で病院に運ばれ、3週間で逝った。
 闘病生活を送りながら、彼女は言った。「あなたは1人では生きていけない人だから、いい人がいたら結婚して。私を忘れていいから」
 そう簡単に忘れられるものではなかった。彼女が使っていたものを、男は捨てられなかった。家の中は、彼女の生活と思い出に満ちていた。だから、別の家を見つけようかと、新しい伴侶に相談したのだった。
 女は離婚しての再婚だった。男の家に入ると、1階に新しい家具を入れた。トイレの戸はもう1度開く方向を変え、もとに戻した。食器もすべて入れ替え、以前からのものは2階に移した。2人の生活はほとんど1階に限られた。
 2階の1室は、「ちえこママの部屋」と名づけられた。「ちえこ」は、亡くなった彼女の名前だった。命名は女の提案だった。「娘さんが孫を連れて来やすいでしょう」
 その部屋には、クローゼットがあり、前の戸がはずしてある。中には、彼女の写真がいくつも置いてある。夫婦で写ったものもある。さながら、仏壇のようだ。2人分のテニスラケットや、スキー用品も納められている。読書好きの彼女が買って、男も読んだ本もたくさん並んでいる。
 男がその部屋を使い、後片付けをしないと、女は叱る。「ダメよ、きれいにしておかないと。ちえこママの部屋だから」
 隣の部屋には、ダブルベッドが据えられたままになっている。「ウオーターベッドなので、重くて運び出せない」。それが男の言い訳である。
 男の娘が孫と遊びに来ることが決まると、女はちょっとした模様替えをする。亡くなった彼女が揃えた食器の一部を2階から下ろす。その代わり、再婚生活で使っているものを2階に上げる。そうして、食器棚の中身を入れ替える。
 着る人がなくなった女物の衣類も、たくさん残っている。男はその処分を女に相談した。「私に始末しろと言うの?」。その時だけは、腹を立てたような女の言葉が返ってきた。(梶川伸)=2006年11月18日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2016.11.22

更新日時 2014/11/23


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