もういちど男と女(28) はちきん
東京の便利さ、これに勝るものはない。男はそう思っていた。東京以外は嫌な人間で、よく冗談を言った。「電化製品なら東芝で、日立もだめ。車は日産で、トヨタはもってのほか」
東京の大学で研究を続けてきて、定年を迎える時期に、高知県にできる大学からぜひにと誘われた。男にとっての高知は、東京とは正反対のイメージだった。
山登りや野鳥、花も好きだが、野性味あふれる環境が日常となると思うと、ためらいがあった。連れ添った妻に相談した。彼女はあっさりと高知行きを勧め、夫婦で移り住んだ。
新しい住みかは、庭があり、前に田が広がる一戸建てだった。仮住まいの間に不動産屋に次々と資料を送ってもらい、ファクスのロールを3本も使って決めた。東京の便利さとは雲泥の差がある家を選んだのだから、面白いものである。
男は新しい大学づくりに、懸命に取り組んだ。彼女もそれをフォローしたが、21世紀を目前にして病死した。子ども2人は独立していて、男1人の高知暮らしとなった。
世話好きの女性が、再婚話を持ってきた。相手の女は、喫茶店を開いていた。離婚していたので、同じく再婚だった。見合いをし、何度かデートを重ねた。
男には気になることがあった。女は22歳も年下である。女の父親は男より3歳上、母親は1歳上。どうしても、将来の不安が頭をよぎる。
女の喫茶店は年配の客が多く、老人憩いの家のような感があった。年寄りには慣れているとはいえ、家族のこととなれば、話は別である。
海岸を散歩しながら、男は聞いた。「結婚すると、あなたはもう1人、年寄りの面倒をみることになるんですよ」。女は言った。「1人みるのも、3人みるのも一緒」
高知の強い女性を「はちきん」という。男は「はちきん」を女に重ね、安心感を覚えた。
2人の生活は、コーヒーの香りに包まれている。女は趣味でカップを集め、年を経るにつれてその数が増えていった。男はコーヒーを飲みながら、海岸の会話を思い出し、聞いてみることがある。「後悔してない?」
女の母親の入院生活が始まった。女は店を閉めると、帰宅する前に病院に寄る。母親は言葉が少し不自由になった。筆談もする。母親が書いた紙に、男も文字を書いて、言葉のやりとりをする。
母親は時々、外泊許可をとって自宅に戻る。それを、「家に行く」と表現するようになった。病院に安住感を持ってしまうことが、2人にとっては心配である。
海岸での会話は、将来の不安だった。それが今、現実化してきた。「後悔してない?」の質問に、女は答えない。ただ笑っている。(梶川伸)=2006年11月11日の毎日新聞の掲載されたものを再掲載2014.11.11
更新日時 2014/11/11