もういちど男と女(26) 般若心経
居酒屋のカウンターの隅で、男と女がゆっくりと酒を飲んでいた。客が引いていき、店が静かになると、女が女将(おかみ)に語り始めた。
「がんやねん。あしたから2カ月ほど入院するわ。手術もするけど、今度はどうかなあ。もう50前やし、自信ないわ」
女も近くで、スナックをしていた。店が終わると時々、腹ごしらえに立ち寄るので、女将とは顔なじみだった。ただし、いつもは1人だった。
男のことも話した。「恋人になりたかってん。でも、5歳も年下やし」。女将との話に、男は口をはさまなかった。「何で、こんな話をするんやろ」。女はそう言って、ハンカチで目頭を押さえた。気丈な女だったが、涙がにじんでいた。
2人は同じ会社に勤めていた。女は30歳を過ぎて会社をやめ、母の店を継いだ。いい場所にあったので、客も多かった。女は結婚をせず、店に打ち込んだ。
男は結婚してからも、たまに女の店を訪ねた。たいていは同僚と一緒だった。ここ数年は女が体調を崩して店を休むことがあり、気になって1人で出かけることもあった。そんな折、女はがんだと打ち明けた。
女から会社に電話があった。「今夜、付き合ってくれへん? しばらく店を閉めるので、あいさつをしときたいとこがあるねん」。一緒に行ったのが、居酒屋だった。
女は女将にばかり話した。がんの手術がうまくいったと喜んでいたら、5年たって再発や転移が見つかり出した。
色白の女だったが、顔色にくすみが増していった。病院での治療のほかに、がんに利くというものがあれば、何でも試してみた。滝に打たれることもあった。
店の客は3人だけになっていた。滝の話が出た時に、離れてポツンと座っていた男性客が口をはさんだ。「不動明王にすがっているのですか」。女はうなずいて、兵庫県の行場の名をあげた。
「もう1カ所、行きたい所があるんやけど。2人分のおにぎりを作ってくれへん」。女が女将に頼んだ。
女将がご飯を握る間に、男性客が話しかけた。「不動明王は力が強い。不動の真言と般若心経を唱えさせてもらっていいですか」。女は「お願いします」と応えた。
男性客はバッグから数珠を取り出し、手にはめて2人に一礼した。「のうまくさんまんだ ばざらだん せんだまかろしやだ そわたや うんたらた かんまん」「……ぼうじそわか はんにゃしんぎょう」。2人はずっと手を合わせ、頭を下げていた。
般若心経が終わると、女将がパックに入れたおにぎりを手渡した。女はそれを受け取り、男性客に礼を言って、男と2人で店を出た。夜はすっかりふけていた。=2006年10月21日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載
更新日時 2014/11/01