もういちど男と女(25) 名字
名字というものが、重くのしかかっていた。学者である女は、時代の中に半生を位置づける。
7代続く旅館に生まれた2人姉妹の妹だった。姉は女将(おかみ)になるものとして育てられた。女は大学教員の道を進んだ。
姉は結婚話がまとまった時、一家にとっては予期せぬ選択をした。養子をもらうのではなく、相手に嫁ぎ、家を離れた。旅館の継ぐという、いつかやってくる未来を、女が抱えることになった。名字がその象徴だった。
見合い相手は別の大学の教員で、2人兄弟の長男だった。車での4回目のデートで、女は養子の話を切り出した。「考えさせてください」と言って、男は車外に出た。
男は背中で車にもたれ、微動だにしなかった。女は後ろめたさを感じながら、その背中を見続けた。夫婦別姓が抵抗なく語られる前だった。
15分たった。男は車に入って来るなり言った。「何とか対応します」
男の大学は隣の県にあった。新居は2つの大学の中間に構えた。別居結婚や、週末婚という方法もあったのだろうが、まだ一般的ではなかった。
子どもができなかった。名字を残す呪縛もあり、不妊治療をした。男の方に大きな原因があったが、女も治療を続けた。排卵誘発剤を使うと、副作用がきつかった。人工授精も試みた。男からはいたわりの言葉がなく、不信感が募った。「私の方がつらいのに」
男が「アメリカに留学したい」と言った。その後の言葉に、女は愕然(がくぜん)とした。「手続きのために、離婚届にはんを押してほしい。帰国したら、また結婚する」。離婚届と結婚届を差し出した。
「対応します」と結婚前に言った男の意味が、明らかになった。男は大学では、旧姓を通していた。留学が決まり、パスポートや大学の書類の関係で、法律的にも旧姓に戻したかったのだ。女は同意した。しかし、名前を書く手が震えた。
男が帰国しても、結婚届は出さなかった。女は別の大学に移り、別居していたが、不妊治療は続けた。顕微授精のため、採卵を試みた。卵子が成長しすぎて無理だった。
その翌日、男の車で正面衝突の事故に遭った。ぶつかるまでのわずかな時間に、半生が走馬灯のように回った。「お前の人生はこれでよかったのか」。神さまの声が聞こえたような気がした。
事故を機に、不妊治療をやめた。「好きに生きていこう」と決めた。しばらくして、男が強引にキスをした。女は吐き気を覚えた。もう会わない、とはっきりと告げた。
女は50歳になった。姉が実家に戻り、女将の仕事を覚え始めた。「名字にこだわった人生は何だったのか」。女は思う。同時に、「自分から人を好きになる」と、言えるようになった。(梶川伸)=2006年10月15日の毎日新聞に掲載したものを再掲載2014.10.20
更新日時 2014/10/20