もういちど男と女(19) ダイエット
夫や子どもとの生活に、何の不満もない。しかし、女は漠然と思い始めた。「恋がしたい」
幼稚園に通う子どものお母さんたちで、ショットバーに行ったのがきっかけだった。「私が知っている店で飲まない?」と女は誘い、子どもを夫に任せて出かけた。結婚前に通った店だった。
カウンターにいた男が声をかけてきた。昔の飲み仲間だった。名前もうろ覚えだったが、懐かしかった。
カウンターは満席だった。男は自分のいすの上で体をずらし、2人で一緒に座った。「当時はこんなことは普通だった」。女にとっての20代がよみがった。軽い体の接触も違和感はなく、違和感を持たない自分がうれしかった。ジンリッキーから始め、辛めのカクテルを飲みほしていった。
酔いが回ると、思い出と現実が重なってきた。その店を起点にして、気の合う数人で時には朝まではしごをしたものだった。「楽しかったなあ」
お母さんグループには先に帰ってもらった。「もう1軒」。2人きりのはしごになった。そこも昔なじみの店だった。酔いに付き合ってくれた男を、優しいと感じた。
遅く帰宅した。昔の男友だちに出会ったことを、女は夫に話した。夫は深くは聞かなかった。夫がいい気をしていないのは分かった。女はちょっと、やきもちを焼かしてみたかった。「私も捨てたもんじゃないよ」
専業主婦で子どもが2人もいると、外部との接触は少ない。幼稚園のお母さん同士は、みんなが「○○ちゃんママ」と呼び合う。○○は子どもの名前である。「私個人」を見てくれていない。
お母さんたちはタレントの話題で、キャーキャーと騒ぐ。女はワイドショーに興味がないので、話に乗っていけない。そんなモヤモヤがあった。
久し振りの男との出会いは違った。母ではなく、男友だちと女友だちの関係だった。
男に抱いた感情は、恋心ではないと女は思う。40歳を前にして、うぶな女ではないことも自覚している。ただ、もう一歩踏み込めば、気持ちが高ぶるかもしてない。それが恋心だと言うのなら、そうかもしれない。
恋愛小説を立て続けに読んでいる。20代のころは、「マディソン郡の橋」の女主人公のことを、「愚かな女」と切り捨てていた。それなのに、いつか自分も暴走してしまうかもしれない、と思わないではない。
そんな日が来るのかどうか。とりあえず、いつでも恋愛ができるように、ダイエットを始めた。スリムだった若い日に比べると、肉もついておばさん体形になっている。
男と別れ際に、携帯電話のメールアドレスを聞いた。3回ほどメールしたが、音沙汰はない。次は、「気が向いたら呼んでね」と、送ってみる。(梶川伸)2006年8月19日の毎日新聞に掲載されたものを再掲載2014.09.07
更新日時 2014/09/07