もういちど男と女(14) 形見
たばこが離せない男だった。命が尽きようとしても、吸いたがった。女は病院に見舞いに行くと、車いすに乗せて、地下駐車場に連れて行った。寒い時期だったので、女の車の中で一服した。
男が亡くなって、車の灰皿に吸い殻が2本残っているのを見つけた。5カ月が過ぎても、ビニール袋に入れて持ち歩く。
女は40代の半ばにさしかかっていた。ホームヘルパーの仕事で、男と知り合った。男は前立腺の手術をし、尿パックも使っていた。食事は自分で作ったが、掃除は介護保険に頼っていた。
掃除に通ううち、女は「ご主人はどんな人」と聞かれた。夫とは離婚し、子どもが3人いることを話した。男は最初の妻とは死別、2番目の妻とは離婚していた。
半年して、男は食事に誘い、歯が浮きそうな言葉を連ねた。「この年になって、ときめいた。君は後光が差している」
2回目の食事では、もっと積極的だった。「付き合ってくれ」。女は断った。親子ほど年が離れている。「一緒に年を重ねていく人がいい。年をとった時に、そばにいてくれる人がいい」。正直な気持ちを告げた。
「悪いことを言った」。女は後悔して、男に電話をした。「何とか家に帰ってきた」。沈んだ声だった。「離れたらあかんのかな」。そんな思いに包まれた。
男は娘夫婦と住んでいたので、外で会う機会が増えた。ホテルにも泊まった。男の病気のせいで、最後の結びつきはなかったが、それ以外の肌の触れ合いで、気持ちを確かめ合った。
「再婚しないか」と、男は聞いた。「子どもが思春期なので」と、女は話に乗らなかった。
その間に、男にはがんが忍び寄っていた。抗がん剤治療でも、うまくいくかどうか。それが医者の見立てだった。
昨年11月、ワンルームマンションを借りた。話は女が切り出した。「いつ、どうなるか分からない。そばにいる時間がほしい」
土曜日には必ず2人で泊まった。日曜日には「新婚さんいらっしゃい」を見た。しかし、新居の生活は短かった。
年が明けて、男は入院した。女は毎晩通った。「お前と出会えて、本当に幸せや」「お前のために、何が何でも生きたい。神様仏様、助けてください」。体が衰える一方で、男の言葉はますますストレートになった。
入院して2カ月。その夜、女は男の手を握り続けた。午前2時、男の命の火が消えた。居合わせた前妻が、男の腕から時計を外し、女に渡した。
ワンルームマンションから運んだダブルベッド、腕時計、吸い殻。1年1カ月の愛の形見である。「生まれ変わったら一緒になるための出会いだった」。女は形見を手放すつもりはない。(梶川伸)2006年7月13日の毎日新聞の掲載されたものを再掲載2014.08.12
更新日時 2014/08/12