もういちど男と女(11) 花束
「すみれの花咲く頃(ころ)」。宝塚歌劇の歌が、恋の幕開けを告げた。
女は50代で夫を亡くした。「閉じこもっていたらだめ」とハイキング仲間に誘われ、週1回の山歩きが復活した。
陽光のまぶしい春だった。女性ばかりのグループが山道を下りていくと、男が1人で休憩していた。山好き同士の気安さで、「こんにちは」のあいさつを交わすと、後は会話が弾んだ。陽気な男は突然立って、宝塚の歌を独唱した。
男もハイキング仲間に加わった。奈良・吉野山に桜を求めて行ったのが最初だった。男は自費出版した自叙伝を見せた。子どものころに両親を亡くし、苦労を重ねた半生がつづられていた。
女は読んだ感想をしたため、次の山歩きで、そっと渡した。男は喜んだ。「会社の同僚は読んでくれんかったのに」と。
手渡しの文通が始まった。女性たちは、みんな男に憧れていた。仲間に気付かれないようにする秘密めいたことに、女はときめきを覚えた。
男の手紙の中に、京都への誘いの言葉があった。子育てに追われてからは、夫とも2人きりで出かけた記憶はなかった。女は心が躍った。
清水寺の境内で、男は手を握った。食事は個室のある店だった。2人の部屋に、まかないの女性が控えていた。男には妻がいる。秘め事を見すかされているようで、女は顔から火が出た。
燃え始めた炎を消せる冷静さはなかった。山歩きとは別に、週に1回は2人だけで会い、近くの浜へよく出かけた。「海は荒海♪」「あした浜辺をさまよえば♪」。海の歌を一緒に口ずさんだ。愛し合いもしたが、午後5時になると男は決まって家路を急いだ。幸せは半日限りだった。
1度だけ、泊まりがけの旅を計画し、旅行代理店に2人で出向いた。申し込み用紙に、男は女の夫の名を書いた。「ずるい」と思い、女はその場で旅行を取り止めた。2日後に、妻が喀血(かっけつ)したと聞いた。「虫の知らせだったのだ」と、女は安堵(あんど)した。
別離は突然だった。待ち合わせた駅で、男の姿が見えたが、娘と一緒だった。いや、娘に支えられながら歩いていた。
軽い脳梗塞(のうこうそく)を起こし、入院したと後で知った。「半身不随でも会いたい」。覚悟を決めて、病院を訪ねた。男は退院した直後だった。持っていた花束は、病院の職員に預けた。
家まで見舞いに行く勇気は、女にはなかった。1年が過ぎたころ、仲間と吉野山に行った。男が初参加した山だ。「元気にしてるんやろか」。口々に言い、男に電話をかけてみた。男は1カ月前に亡くなっていた。
女は初盆に、花束を送った。花に添えたお悔やみは、初めて男の家に送った手紙だった。(梶川伸)2006年6月24日の毎日新聞の掲載されたものを再掲載2014.07.24
更新日時 2014/07/24