もういちど男と女(08) 朝昼晩晩晩
女の話には、どこかに父親の影が落ちていた。夫に物足りなさを感じ、妻子ある男と付き合ったのも、そのせいだったのかもしれない。
父は家族を支配した。気に入らないと、膳を引っくり返した。「白を黒と言え」と命じるようなワンマンだった。わがままさのせいだろう、台所で泣いている母の姿を、何度を見かけた。
娘には優しかった。あぐらを組んだ足の間に抱かれ、話を聞いた。父は船乗りだった。「板切れにつかまって、波間を漂ったよ。やっと手を差し出してくれる人がいて、助かったけどなあ」。ペール・ギュントかシンドバッドのような冒険物語を聞きながら、父のゆりかごの中で眠った。
父が亡くなる前の病室でのシーンを、女は鮮明に覚えている。母は父の額の汗をふきながらつぶやいた。「上海にいい人がいて、あなたの兄弟がいるかも知れないの」。看護師が「耳は聞こえていますから」と言って制した。母の初めての反抗だったのだろうか。
女の結婚は早かった。夫は何も言わない優しい人だった。女の生活には全く干渉しなかった。父とは正反対に思えた。
半年で「何か違う」と思い始めた。「何でもさせてくれるのと、気遣ってくれるのとは違う」。わだかまりが、心の中にが広がった。「この人ではない」。もやもやした気分は晴れなかった。
中学校の同窓会があった。その席で、20数年ぶりに男と出会い、電話がかかり始めた。最初は「寄ってこないで」と、防衛本能が働いた。たが、男は積極的で、支配したがった。朝昼晩晩晩と電話をかけて、女の生活に踏み込んできた。自分の生活もすべて見せた。「男の人って、こうなんや」と女は感じたが、それは父の面影でもあった。濃密な関係になってから、女の情熱について男が言ったことがある。「父親への恋物語やな」
2人とも勤めがある。朝は別々の家から出るが、駅で待ち合わせて出勤した。夜も落ち合って、2人の時間を過ごした。女は結婚生活の満たされない部分を、男に求めた。「この人と人生をやり直したい」とも考えた。
あけすけな2人の仲を、男の妻が気づかないはずはなかった。2人が旅行に出かけた時もそうだった。男は仕事の出張と偽ったが、妻はピンときて、駅まで見送ると言い出した。男は駅で見ず知らずの男性に5000円を手渡し、会社の同僚を装ってもらい、その場を取り繕った。
女は家庭と男のはざまで揺れ動いた。15㌔も体重を減らし、離婚した。男は決断せずに、家庭を守った。
付き合いは継続している。だが、女には「何かが過ぎ去った」という感情も芽生えてきた。「割り切って、末永く」。それが今の気持ちである。(梶川伸)2006年6月3日の毎日新聞夕刊に掲載されたものを再掲載2014.07.02
更新日時 2014/07/02