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もういちど男と女(06) 距離感

切り絵=成田一徹

 初恋行きのチケットを眺め、女はコンサートの日を待つ。50の大台に乗った今も心が躍る。会場に行けば、高校時代の空気を吸うことができる。
 高校のころ、女は友だちと一緒にバンドの演奏をよく聴きに行った。アマチュアグループなので、顔見知りになると、演奏の終了後に、話をする機会が多かった。
 親友から電話があった。「あの人を好きになったみたいやねん」。ギターを担当する大学生の男のことだった。「エッ」と言葉が出て、一瞬間が空いた。間の後で女は約束した。「任しといて。応援するわ」
 電話を切ってから、「あの間は何だろう」と考えて、思い当たった。自分こそ、その男を好きだったんだと。
 女は女子中学から女子高校に進んだ。厳格な父の方針だった。そのためか、男性に対して拒絶反応があった。その男にしても、「お兄ちゃん」という新しい感覚があったくらいだった。
 新しい感覚が、実は恋心だった。男との会話が楽しいことのなぞも解けた。「スリッパと靴を片方ずつはいてくる先生がいてんねん」。教師をネタにして、よく笑った。
 気持ちとはうらはらに、親友のPRに努めた。男が学生結婚を決め、相手を紹介された際も、「好きになった気持ちを大事にしよう」と、親友を慰めた。本当は、自分に言い聞かせていた。
 女は結婚して、子どもも生まれた。35歳の時、心に変化が起きた。母の急死がきっかけだった。父も家族も落ち込んだ。女は長女の責任感で、みんなを懸命に支えた。
 周りが落ち着くと、今度は自分の心がストーンとどこかへ落ちていった。夫や子どもが出かけた後、どう過ごしていいかわからない。何によっても埋められないような時間が流れていった。
 そんな時、コンサートの案内に目が止まった。男はまだ演奏を続けていた。目が離れない。夫が気づいて声をかけた。「昔、聴いていたバンドやろ。行ってこいや」
 女性が1番変わる時期の十数年間会っていなかったが、男は舞台の上で言った。「今日は懐かしい人が来ています」。フルネームで紹介された。覚えていてくれた。おずおずと立って、聴衆に頭を下げた。空いていた月日がつながった。
 年に2、3回、音楽が高校時代に引き戻し、みんなでおしゃべりをする。初恋談義になったことがあった。女は「出合ってすぐ好きになったんよ」とさりげなく言った。「冗談きついわ」と男は笑い、それが本心だとは気づかなかった。
 気づいたら困る。心地よい距離感がおかしくなる。一生恋をしたままでいたい。初恋から卒業したくない。いつも、そう思いながら、家路につく。妻に戻り、母に戻る心の準備体操でもある。(梶川伸)2006年5月20の毎日新聞夕刊に掲載されたものを再掲載2014.06.14

もういちど男と女

更新日時 2014/06/14


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