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もういちど男と女(05) 夜光虫

切り絵=成田一徹

 「指輪がほしいの」。女は唐突に言った。卵巣膿腫(のうしゅ)を切除する手術の10日前だった。
 診断では、膿腫は良性だった。しかし、開けてみて、悪性の可能性がないわけではない。その指輪をはめて入院したいと思った。
 「丸いものなら何でもいい」と言いながらも、女は注文をつけた。「飾りのない平たいものを」
 男は面食らった。指輪など、その昔の結婚の前に買ったきりだった。自身は指に差したことはない。とりあえず、デパートを訪ねた。
 リングは中央部に膨らみを持ったものがほとんどだった。平らなものには、何かしらの飾りがあった。希望のものはなかったが、細工の少ないプラチナの指輪を求めた。
 店員が指輪のサイズを聞いた。男は教えられた「5.5」と答えた。そのサイズは置いていなかった。女の指の細さを、男は初めて知った。
 指輪を加工して、指に合わせることになった。そのために、少し期間がかかるという。「できるだけ早く」と男は頼んだ。でき上がったは、入院の前日だった。
 手術は問題なく終わった。男が見舞いに行くと、指輪は左手の薬指にあった。「手術は不安だから、近くにいてくれるものがほしかったのよ」。心配も杞憂(きゆう)に終わったが、女はそれ以来、指輪を離さない。
 結婚暦のある2人が出会ったのは、互いに50歳を迎える寸前だった。人生を考える節目の年だったことに因縁を感じ、仲は深まった。一緒に生活することはなかったが。
 指輪の裏に、ある日付が刻まれている。知り合って1年近くたち、初めて旅行した日だ。瀬戸内海の小島だった。
 宿の主人は親切だった。2人と同い年だったこともあってか、軽トラックで島を案内することを買って出た。土葬の墓にも案内し、言った。「年寄りが亡くなると、大人の中で若いものが穴を掘って葬る」
 島は高齢化、過疎化の波をかぶっていた。主人は大人の中では1番若かった。「私が死ぬ時には、自分で穴を掘っておくんかなあ」。冗談ではあったが、人生の悲しさを感じさせる話だった。
 その夜の海は幻想的だった。水の中で、小さな光の円がぽーっと広がった。外の光を遮るため、両手で望遠鏡の形を作り、目に当てて眺めた。15秒から20秒に1回くらいの間隔で点滅する。夜光虫だった。
 10年近い歳月が流れた。年齢がそうさせるのか、2人に激しい思いはない。「夜光虫のように、ほんのりとした思いを持ち続けたい」。それが長続きしている理由だと考えている。
 左手の薬指を見て、いぶかる友人がいる。女はさらりと言う。「これは私の大事なお守りなのよ」。夜光虫のように、心の底で人知れず光っている。(梶川伸)2006年5月13日の毎日新聞夕刊に掲載されたものを再掲載2014.06.10

夜光虫 卵巣膿腫

更新日時 2014/06/10


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