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能勢街道をゆく③庄内~服部

天竺川の洪水被害に遭わないように設けられた経塚

 今回は阪急庄内駅をスタートした。まず前回行った善徳寺へ。境内に力石があるのだが、前回は気がつかなかったからだ。説明によると、天保年間(1830~44)から豊能郡南豊島村穂積の北口総左ヱ門家に代々伝わる石で、明治初期からは吹田、池田、伊丹地区から、力に自信のある若者たちが競って担ぎにきたという。正味32貫120キロだそうだ。
 天竺川を東へ渡ると長島住吉神社がある。境内には古いものがいくつもある。手水舎(てみずや)は元禄7(1694)年。鳥居は安永7(1778)年。狛犬は文化5(1808)年。境内には豊中市の保護樹木に指定されているクスノキが何本もあり、鎮守の森をつくっている。中には、上の方が幹から折れているものもある。指定木の木陰が、子どもたちの格好の遊び場になっていた。
 再び天竺川を西に渡ったところに、道標がある。「左みのを 右勝尾寺」の文字が見える。
 稲津町に入って道を聞く。「能勢街道を歩いている」と告げると、「はあー」と驚いた様子だった。能勢街道を夏の暑い日に歩く人などいないことを、その驚きが示していた。
稲津町は古い大きな家がいくつもある。頭上を数分おきに飛行機が飛ぶ。道沿いにお堂があり、中に5体の石仏が収められていた。
 名神高速道路の下をくぐり、国道176号稲津町交差点でまた東に道をとる。天竺川を渡り、資料で見た飯野藩浜屋敷跡を訪ねる。見つからないので、バドミントンのシャトルをボール代わりにし、野球のバッティング練習をしていた父子に聞く。最初は首をひねっていたが、「あそこに何かある」と、場所を教えられた。そこが目指す石碑の場所だった。上総国飯野2万石の保科氏は大坂夏の陣に功あり、藩主正益は大阪城に努め、慶安年間(1648~52)に代官所を置き、浜屋敷と称したと説明板に書いてあった。石碑の周りに、ヒャクニチソウが咲いていた。
 いったん、176号に出る。すると、阪急タクシーの本社があった。暑い日で、今回は阪急服部駅で終わりにしようと思った。その前に、国道沿いにあった店、笹庵で昼食にした。冷房にホッとする。カウンターの前に大きないけすがあり、イカやフグが泳いでいて、さらに涼しい気持ちになった。
 そこで、もうひと歩き。国道176号服部南町交差点から東に向かい、旧吹田街道を歩いてみた。天竺川の松林寺橋を東に渡る。そのたもとに経塚があった。天保13(1842)年、このあたりの学者、樋口慶助が天竺川洪水から人々を守ることを祈願して経典を納めた。説明板によると、納めたのは「大乗妙典一字一石」で、法華経を1字ずつ1つに石に墨で書いたと、補足説明してあった。
 そばに松林寺。ここにも、豊中市の指定木のクスがあった。
さらに東に進み、豊中市立第12中学校の北西に、史跡春日大社南郷目代(もくだい)今西家屋敷がある。目代とは、平安中期から鎌倉期に、国司が派遣した代理人のことで、今西氏は荘園、垂水西牧を管理した。
 その今西家屋敷の外堀跡(東辺)が、豊中市立小曽根校区南郷の家の建設に伴い、発掘調査で確認された。南郷の家の前に説明板があり、中に入ると、玄関に出土品が展示されている。展示を見ていると、南郷の家の運営に携わっている古川幸治さんが、展示品を説明してくれた。展示の中に焼夷弾(しょういだん)があり、「小学5年の時の空襲で落とされた」と話した。
 古川さんは「3度も脳梗塞を起こした」と語り、歩くのは十分ではないのに、近くを案内してくれた。白蛇の神様を祭っている場所、続いて鹿塚。春日大社のご神体を運んできた鹿が近くの人の殺されてしまった、という言い伝えがあるそうで、その鹿を祭っているのが鹿塚だと教えてもらった。貸すが春日大社は今西氏の屋敷の敷地内にあるという。
 常光寺、養照寺、西福寺と巡る。西福寺には、枝を低い場所で横に伸ばした松があり、これも豊中市の指定木になっていた。高川の堤防に出て、新しい吹田街道を服部駅まで戻った。今回も、いくつもの親切に出会った。感謝。(梶川伸)

能勢街道 吹田街道 保科正益

更新日時 2010/08/29


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