鎌倉街道をゆく 豊中市・椋橋~天竺川・造田小橋
「能勢街道をゆく」に続いて、豊中市、池田市を通る旧街道を歩いてみる。今回は鎌倉街道(京街道)。
阪急宝塚線庄内駅で降りて、南西へ15分ほど歩くと、旧猪名川のほとりに椋橋(くらはし)総社(豊中市庄本1)がある。ここを出発点にした。素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭神としていて、言い伝えや話題の豊富な神社だった。
境内には鯉(コイ)の池があり、本殿の前には鯉塚がある。素盞鳴が高天原(たかまがはら)から鯉に乗ってきて、この地で死んでしまった。それが鯉塚のいわれだという。もう1つ説がある。奈良時代の僧、行基が猪名川に橋をかけようとした。しかし暴れ川で思うようにいかない。すると、川の鯉が集まって魚橋を作り、行基は魚橋に乗って、橋の工事を進めたそうだ。2つとも突拍子もない説話だが、川辺豊宮司は「このあたりの人は今でも、鯉を食べない」と語った。
境内に出世亀菊天満宮があり、これにまつわる話も面白い。後鳥羽上皇が亀菊という女性を愛し、このあたりを亀菊の所領にした。亀菊は天神さんを信仰し、天満宮を建てたという。この所領を鎌倉幕府の御家人が奪い取り、上皇は怒って幕府執権、北条義時追悼の令を出し、承久の変(1221年)が起きたという。
境内には巨木が多い。豊中市の保護樹になっているクスノキもある。本殿のそばには、阪神大震災で倒れた鳥居のモニュメントもあった。総社の鳥居は、約200メートル南にあった。元禄年間(1688~1704年)の建造で、石でできていた。高さ5.7メートル、幅7.2メートル。それが阪神大震災で倒れてしまった。川辺宮司は「モニュメントとして残したのは、東側の柱の上の部分。抜きと呼ばれる笠木の下にある横木の跡も、柱に残っている。西側と笠木は粉々に壊れた。幸い、時刻が早く、けが人はんかった。新しい鳥居は石にはしなかった」と語った。
総社の南側に光谷寺がある。外から鐘楼が見える。資料によると、赤穂浪士の1人、萱野三平の碑がるそうだが、門が閉まっていた。
総社の300メートルほど南に、旧猪名川にかかる椋橋がある。街道はこの橋の東西に伸びる。そのたもとに、街道時代をしのばせる江戸時代の灯篭(とうろう)が残っている。このあたりは猪名川を活用した物資の集積地として栄えた。おいしい米の産地でもあり、集められた産品は京を通り鎌倉に送られた。鎌倉街道(京街道)の名はそこからつけられた。
街道を東に歩くと、阪急神戸線の踏切を渡る。街道と交差するように緑道があり、「鎌菰(かまこも)」の石碑が立っている。街道は鎌のようなカーブを描きながら菰江に通じたので、この名前があると説明板にあった。そばには、「かまっこ橋」と書かれた石も置かれていた。
道はゆるい曲線を描いて続く。庄内ふれあい通りと名づけられ、大黒公園、庄内南小学校、庄内図書館の前を通ってゆく。国道176号は歩道橋で渡ることになっていて、次は阪急宝塚線の高架下をくぐる。やがて天竺川に出て、道田小橋で旧三国街道と交差した。(梶川伸)
更新日時 2011/09/15