心にしみる一言(324) 死体が一杯になるにつれ、たくわんの大根をつけるように積み直す
◇一言◇
死体が一杯になるにつれ、たくわんの大根をつけるよう積みに直す
◇本文◇
戦後50年の年の1995年、「ふるさとを求めて」と題した10回の連載記事を取材・執筆した。中国・東北地方(旧満州)に入植した生琉里(ふるさと)開拓団の、戦前から戦後にかけて物語だった。旧開拓団の何人もから聞いた体験談をもとに、戦争の残酷さ、悲惨さという「戦争の悪」を記事にした。取り上げたのは、風間博さんの言葉だった。長い個人史の中で、終戦前後の部分をピックアップする。
1945年8月13日に開拓村に、電報が届いた。「16日(もしくは17日)までに撫着部隊に入隊せよ」。村から招集されたのは10人か11人。風間さんは「ようし、頑張るぞ」という気持ちだった。
撫着部隊の敷地には入ったが、、兵舎に入らず解散だった。「日本は負けた。ご苦 労であった」と簡単に一言を告げられただけだった。「悲しいとか、良かった、とか思わなかった」。そんなうつろな気持ちだった。
開拓村に帰る際、旧ソ連軍の捕虜になった。野宿をしながら、牡丹江まで約200キロを歩いた。道端で日本人女性が「殺してください」と叫んでいた。そばに子どもの遺体。「この子も死んだ。私も何も食べていない」。子どもの体は腐って、ウジがどさっと落ちる。ウジが沈んだ川の水でトウモロコシを洗って食べた。
開拓村に帰ると、ほかの開拓団の人も合流していた。衛生状態が悪く、800人もが亡くなったという。
「青年が中心になって、開拓村の門の外に穴を掘った。冬は土が1メートル以上凍る。そうなると土が掘れないので、寒くなる前に掘った。『死人がいる』と連絡が入る。腰のあたりをロープで結び、丸たん棒を通して運ぶ。頭が前の人の尻になるようにして。最初は穴が深いから、ストーンと音がする。死体が一杯になるにつれ、たくわんの大根を漬けるように積み直す。のりとをあげることもなく、花を供える供えることもない。犬が出入りし、死体をかじられた。見ないふりをするが見えてしまう。顔にかけるハンカチすらない」
風間さんが日本に引き揚げたのは、1946年10月だった。(梶川伸)2021.08.09
更新日時 2021/08/09