心にしみる一言(276) 野菜をうちに食べに来ませんか
◇一言◇
野菜をうちに食べに来ませんか
◇本文◇
単身赴任をテーマに、小さなコラムを書いていた時期がある。25年近く前のことだった。高松市に単身赴任したので、自分の体験をネタにした。
高松は「支店経済の街」と呼ばれる。国の出先のほか、企業の支店、支社などが多い。その長はたいてい転機族で、単身赴任者が大勢いる。私も支局長という立場だった。
単身赴任者の間の共通の話題は、食べ物のことだった。私も自分で夕食を作ったのは数回しかなかった。自分のために作っても、おもしろくないし、1人で食べてもおいしくないからだ。その反動もあって、家族と再び生活するようになって、ボチボチ料理をするようになった。
高松では夕食はほとんど外の店で食べた。そんな店には、同じような人がいた。ある時に出会った人のことを、コラムにした。「単身の誘惑」と、わざと意味深なタイトルをつけて、おもしろおかしく書いみた。
「単身赴任ですか」と声をかけられた。「そうです」と答えた。「家で夕食を作るので、いらっしゃいませんか」と誘う。ここまで書くと、着物姿の落ち着いた女性でも想像するだろうが、実際は大いに違う。男性だった。
彼は単身赴任なので、同じ境遇の人を呼んで、しばしば夕食会を開くという。どうせ暇な単身の夜。「今夜は仲間が揃って、ドンチャン騒ぎだ」。そう決めた。しかし、雰囲気が違った。
ダイニングの小さなテーブルで、彼と向かい合う。ほかに招待客はいない。「少し焦げたかな」と言いながら、男の手料理が運ばれる。「単身生活は野菜が不足するから」と、アスパラガスやカボチャ、ニンジンといった黄緑色野菜中心の細かい心遣い。料理は決して上手ではないが、努力は買える。
大の男2人の夕食は、どこか奇妙だ。落ち着かないので、ビールと酒を矢継ぎ早に口へ運んだ。こちらの酔いが回ってきたころ、相手も顔が赤くなり、ドンチャン騒ぎとはいかないまでも、言いたい放題言って、夜はふけた。
単身赴任者の夜の食卓は貧しい。そんな雰囲気を出す文章にしたかったのだが、書いているうちに自分でも笑えてきてしまった。(梶川 伸)2020.12.11
更新日時 2020/12/11