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心にしみる一言(215) 駅前だけを整備した形になり、奥まった所までは手が回らなかった。戦災で焼け残った地域で、そこがやられてしまった。

2019年1月17日午前5時46分に合わせて行われた神戸市長田区の地域の慰霊祭

◇一言◇
 駅前だけを整備した形になり、奥まった所までは手が回らなかった。戦災で焼け残った地域で、そこがやられてしまった。

◇本文◇
 間もなく、阪神大震災から25年の記念日になる。震災発生後の取材を思い起こしてみた。
 「株式会社」と呼ばれ、自治体が街づくりの主役となる「公共デベロッパー」という言葉を生んだ神戸市。その“社長”として、1969年から20年間年間、開発行政を進めた宮崎辰雄・前神戸市長(取材当時は神戸都市問題研究所理事長)は、「50年の市役所生活で一生懸命やってきた施策が通じなかった」と肩を落としていたのを思い出す。
 後悔の1つは、神戸市長田区での大火災発生のことだった。JR新長田駅一帯の
都市改造は、戦災復興事業で取り組んだのだという。「昭和25年ころだと思うが、地元と市が費用を負担して、駅を設置してもらった。市は500万円支出したと思う。西神戸デパートというビルを建てたり、土地の高度利用を考えた。道路も50㍍に広げた」と記憶をたどった。。
 戦災復興事業は、地方にとって有利で、宮崎さんや神戸市はここに目をつけた。「最初は国が8割負担し、県が1割、市が1割。国の財政がひっ迫して、国と市が半分ずつとなり、やがて国の補助金がなくなった」
 政令指定都市では名古屋と神戸が積極的だった。神戸は市内全体で510万坪を戦災復興事業で都市を造り直し、震災まで続けたと聞いて驚いた。
 宮崎さんは再び新長田駅周辺の被災に話を戻し、取り上げた言葉となった。さらに説明すると、駅周辺と国道43号の沿道は整備できたが、その間は権利関係が複雑で手がつかず、木造住宅の密集地として残ってしまった。そのため震災の際の発火で、大火災になったということだった。
 後悔はまだあった。「関西は地震が少ない、というのが定説で、油断はあった。六甲山トンネルや新神戸トンネルの工事では、断層の部分から水が吹き出した。それを『神戸ウォーター』として売り出し、むしろ財産のように考えてしまっていた」
 断層は地震の巣といってもいい。警戒が必要なのだが、都市経営という経済の要素を加えた発想が、その警戒感を鈍らしてしまったと言いたかったのだと思う。(梶川伸)2019.12.26

更新日時 2019/12/26


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