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心にしみる一言(178) 行き着くところは、いたわりと感謝

曼荼羅寺

◇一言◇
 行き着くところは、いたわりと感謝

◇本文◇
 遍路で75番・善通寺の宿坊に泊まり、翌朝のお勤めの席で、当時の樫原禅澄管長が語ったのが、この言葉だった。夫婦について語り、「愛していても、長いこと夫婦をしていると、辛抱しなければいけにこともあるし、あきらめも出てくる」などと軽妙な語り口で話を進め、この言葉でまとめた。
 私はそれまで、モヤモヤとしていた。前日、72番・曼荼羅寺で見かけた老夫婦が目に焼き付いたが、なぜそんなに感動するのか考え続けていたからだ。しかし、管長の言葉で腑に落ちた。
 老夫婦の夫は、腰が90度近くまで曲がっていた。足も弱っていて、本堂や大師堂のわずな石段を上り下りするのがおぼつかない。妻の方が懸命に支えていた。腰を下ろしてお経を唱えるが、座ったり立ち上がったりが大変で、これも妻の助けがなければ無理。それでも夫婦で遍路をする。
 大師堂では、夫は石段の端に腰をかけ、経本を開いている。ただ、声は聞こえない。聞こえるのは妻の声だけ。妻は心経に合わせ、右手に持っている閉じたままの経本で、るが、夫の背中をさすり続けていた。
 どこか崇高に見えた。夫の足がもつれてよろめいた時、手助けしょうと動きかけたが、思いとどまった。この夫婦の間には、入り込む余地はないと思ったからだ。
 ひょっとして、これが遍路の本質ではないか。そう直感して、遍路の仲間と歩きながらや夕食の席で話してみたが、なぜ本質なのか、なぜ崇高にみえたのかは分からなかった。私なりの答がでたのは、管長の話を聞いてからだった。
 経本で背中をさすっていたのは、妻のいたわりの現れではなかったか。愛や辛抱や諦めを経験した後で、到達した境地に違いない。夫が妻にもたれて心経を唱えている時の穏やかさは、感謝の気持ちが信頼に昇華していた殻に違いないか。
 曼荼羅寺でのお参りのあと、声をかけてみた。夫婦で13周目だという。4巡以上回れば、先達とう資格を受けられる。しかし妻はいった。「先達の資格をとるつもりはありません。夫の世話だけで精一杯で、ほかの人のお世話までできません」(梶川伸)2019.01.15

更新日時 2019/01/16


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