心にしみる一言(137) 般若心経を耳からだけでなく、手の感覚からも知ってもらいたい
◇一言◇
般若心経を耳からだけでなく、手の感覚からも知ってもらいたい
◇本文◇
前回に続いて、京都・仁和寺の第45世門跡、松村祐澄さんの言葉を取り上げた。やはり目の見えない人に関する言葉だ。
話を聞かせてもらったのは私が高松で仕事をしている時だった。松村さんは当時78歳。すでに仁和寺の門跡を辞していた。自坊は香川県にあり、社会福祉法人の理事長・園長も務めていた。そのため、目の不自由な人との接点もあった。
そこで始めたのは点字だった。「70の手習い」とおどけて言った。「人間は年をとれば、目や耳が悪くなり、障害が出るものだ」。そんな考えも根底にあった。
点字を打つ器具を求め、まず名刺から始めた。次に取り組んだのが、心経の点訳だった。般若心経は漢字276文字。その読みの音を点字にした。打つのに3時間以上かかったそうだ。
般若心経はサンスクリット語を中国で漢訳した部分と、音に漢字の読みをあてた部分がある。だから、音の点訳をたどっても、意味が分かるわけではない。だから、なぜ点訳なのかを聞いてみた。「目が不自由でも、音では聞いているので、点訳に意味はあるのか」。その答が上記の言葉だった。
音でも聞き、手でも触れることで、般若心経の真理に近づく可能性を倍化させるのかもしれない。松村さんが唱える般若心経に合わせて。点字心経に指を走らせている目の不自由な人を想像しながら、そんな風に思った。(梶川伸)2017.12.09
更新日時 2017/12/09