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心にしみる一言(113) それぞれが持っている時間の尺度を、人間の都合だけで動かしてきたのが間違い。

大阪大学豊中キャンパス

◇一言◇
 レオロジーの大切な概念に、特性時間という物が持つ時間の尺度がある。それぞれが持っている時間の尺度を、人間だけが自分たちの都合だけで動かしてきたのが間違い。

◇本文◇
 農薬やプラスチック、ダイオキシンの問題で、常に住民運動や消費者運動を理論的に支えてきた人に、元大阪大学大学院理学研究科助教授、植村振作さんがいる。1968年に阪大の助手になってから31年間、ずっと助手のままで、最後の1年間だけ助教授になった。助教授は退任前の“お情け”でもらったポストだったのだろう。
 専門は高分子物性のレオロジー(変形と流動に関する力学)と電気物性。同時に、市民生活に密着した環境科学の研究者としての顔も持った。住民の側に立った実験、研究に没頭した。「みんなと一緒に世の中を変えたい」との思いからだった。
 住民運動との出会いは1971年。和歌山県の高校生が、父のミカン畑で農薬を散布中に亡くなり、遺族が会社を相手取って、損害賠償の裁判を起こしていた。その農薬裁判の激励署名を求められたのがきっかけだった。その日は署名せず、改めて詳しい話を聞きに行き、納得して深入りした。「自分も、父のミカン畑の消毒を手伝っていて、気分が悪くなったことがある」との体験が、背景にあった。
 実はその裁判の支援者の中心になった人が、私が結婚の仲人だった。その家で、初めて植村さんと知り合い、仲良くしてもらった。取材で知り合ったわけはないので、本人の取材をしたことがなかった。退官を機に、出身地の熊本県・天草に帰ることになり、はなむけの意味も込めて、じっくりと話を聞き、記事にさせてもらった。ちょうど2000年のことだった。
 話が大量生産、大量消費、大量廃棄に及んだ時、「一言」が出た。簡単に言えば、「人間だけが急ぎすぎていて、それが地球のバランスを崩している」ということだった。
 インタビューで、どうしても聞いてみたかったことがあった。「なぜ、助手を続けたのか」だった。
 「教授になるための勉強がある。学会で認められるような勉強。そんな勉強はしない、と思った。自分が住みたい世の中にしたい、それでないと自分が満足しない。そっちの方を選んだ」。その答は聞こえがいい。でも、すんなりとその道を進んだわけではなかった。
 「普通の人のように生きたいとも思った。その方が給料も上がるし。ものすごい葛藤もあった。20代後半かなあ。女房にも知らせず、1人で1週間ほど和歌山県・竜神(田辺市)のあたりをウロウロしたこともある。耐えきれられずに、行ったわけですよ」。人間らしいと感じた。(梶川伸)2017.07.06




更新日時 2017/07/06


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