豊中運動場100年(84) フートボール大会 サッカー準決勝/ルール曖昧で混乱
豊中運動場で1918(大正7)年1月12日に開幕した「日本フートボール優勝大会」(現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会)第1回大会は翌13日、ア式蹴球(サッカー)の準決勝を迎えた。
参加8校のうち、明星商業、御影師範、神戸一中、姫路師範の4校が準決勝進出を決めた。実力校が対戦する準決勝となったが、2試合ともに日本サッカーの黎明(れいめい)期の混乱を象徴するような出来事が起こっている。
準決勝第1試合は御影師範―神戸一中の宿命の対決になった。
御影師範は「日本のア式蹴球の開祖」といわれた東京高等師範出身のコーチによって鍛えられたチームで京阪神屈指の強豪だった。一方、神戸一中は外国人から直接指導を受けて実力を磨いてきた。同じ神戸の学校とあって、ライバル意識が異様に強く、対抗心は並大抵のものではなかった。普段の対抗戦でもしばしば乱闘騒ぎを起こしていた。
殺気立って始まった試合は前半、両校とも攻撃に決め手を欠き0―0で終えた。後半に入り一進一退が続くと選手たちに焦りが出始めた。相手のすねを蹴り上げる選手、体当たりする選手。両校の激しい応援も後押しして、過激さを増していった。
そんな中で神戸一中が反則を犯す。ゴールキックを得た神戸一中のキーパーが審判の笛が鳴る前に蹴ろうとして注意を受けた。再度蹴ろうとしたときも笛の前だったため、「相手の隙につけ込んだ」として御影師範にペナルティーキックが与えられた。
当時のルールでは、ゴールキックやコーナーキックは、両チームの選手が定位置に着いたのを審判が確認して笛を吹いた後に認められていた。「相手の隙(すき)をつくようなプレーは卑劣だ」というのがルールの趣旨だった。
御影師範はペナルティーキックを決めて貴重な1点を奪取した。これに対して神戸一中のキーパーは怒り心頭、「やってられるか」と勝手にフィールドから出て行ってしまった。何とも後味の悪い幕切れとなった。
御影師範の応援団は、陸上の長距離選手をスタンドに連れてきていた。勝利が決まった瞬間、電報の頼信紙をわしづかみにして約2キロ離れた岡町郵便局まで突っ走り、「1チウニカツゲンキオウセイ」の電文を学校の留守部隊に送っている。
第2試合は明星商業と姫路師範がぶつかった。
前半は両校とも得点できず勝負は後半へ。まず姫路師範がヘディングでゴールを決め1点を奪取した。一方、明星商業もコーナーキックからゴールを決めて同点とし、そのまま時間切れとなった。
大会規約では、同点の場合はコーナーキック数で勝敗が決まり、それも同数の場合はゴールキックの数が少ない方が勝ちとなった。この試合ではコーナーキック数が同数だったため、審判が協議の末に10分間の延長を決定した。しかし姫路師範が延長戦を受け入れなかったため、結局規約に従ってゴールキック数が少ない明星商業の勝ちとなった。ルールの解釈を曖昧にしたまま大会を始めたために混乱する。こちらも後味の悪い試合になってしまった。
サッカーの決勝は御影師範―明星商業の対戦と決まる。ラグビーの決勝戦の後に大会の締めくくりの試合として行われることになった。(松本泉)
◇第1回日本フートボール優勝大会
ア式蹴球(サッカー)
【1月13日準決勝】
御影師範 1―0 神戸一中
明星商業 1―1 姫路師範
(ゴールキック数で明星商業の勝ち)
=2017.03.14
更新日時 2017/03/14