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豊中運動場100年(107) 全国実業団大会で有終の美/優勝は杉村倉庫に

大阪代表・杉村倉庫の優勝を伝える大阪毎日新聞の記事。熱戦の舞台となった「豊中運動場」が新聞に登場するのはこれが最後になった

 豊中運動場がいつ閉場されたかは定かではない。
 宝塚運動場がオープンする直前には閉鎖していただろうから、1922(大正11)年5月ではないかとみられる。さよならセレモニーのような行事が行われた記録はなく、日本の近代スポーツをリードしたグラウンドの最後としては寂しさが残る。
 豊中運動場最後の大会は、4月2、3日に行われた「第2回全国実業団野球大会」だった。社会人野球は年ごとにチーム数が増えたものの、それぞれの地域での大会に限られていた。待望の全国大会は大阪朝日新聞社主催で20年5月に実現した。豊中運動場で開催された第2回大会では、大阪朝日新聞社は後援に回り、大阪の出版社・中央運動社が主催した。
 出場したのは、東京電気(東京代表)▽日本共立生命保険(京都代表)▽杉村倉庫(大阪代表)▽全三菱(神戸代表)▽呉海軍工廠造船部(呉代表)▽門司鉄道局(門司代表)▽中島鉱業(福岡代表)の7チームだった。
 地域代表として企業チームが参加した。どのようにして代表に選ばれたかは不明だが、5年後の27年に始まる都市対抗野球大会のように、都市同士の対抗戦との位置付けもあったようだ。豊中運動場では都市対抗を先取りした熱戦が繰り広げられていたことになる。
 4月2日は1回戦の3試合があった。
 東京電気―日本共立は、2本塁打などで毎回得点を挙げた東京電気が大勝、全三菱―呉海軍工廠は、12安打の猛攻を見せた全三菱が快勝した。杉村倉庫―門司鉄道局は、同点の緊迫した試合展開で迎えた9回表、杉村倉庫が値千金の勝ち越し打を放ち勝利した。
 翌3日は準決勝と決勝が行われた。
 杉村倉庫―東京電気は、12―5の杉村倉庫リードで迎えた8回、東京電気の遊撃手が頭に死球を受けて負傷。代わりの選手がおらず棄権したため杉村倉庫が決勝に進んだ。
 中島鉱業―全三菱は、6回に一挙に4点を挙げた中島鉱業がそのまま勝利を収めて決勝に駒を進めた。
 決勝は杉村倉庫―中島鉱業の大阪・福岡対決となる。杉村倉庫は同点で迎えた8回裏、1死1塁から左翼を襲う適時打で勝ち越し、外野手が見物席に球を蹴り込んでしまった間に打者も生還して試合を決めた。
杉村倉庫が優勝の栄誉に輝き、豊中運動場の有終の美を飾った。(松本泉)

【第2回全国実業団野球大会】
▽1回戦(4月2日)
東京電気 17―2 日本共立
      (7回コールド)
全三菱   9―3 呉海軍工廠
杉村倉庫  3―2 門司鉄道局
▽準決勝(4月3日)
杉村倉庫 9―0 東京電気
中島鉱業 5―1 全三菱
▽決勝(同)
中島鉱業
  200000000=2
  10000102×=4
杉村倉庫
(中)臼井―花田(杉)樫本―福長

更新日時 2018/03/07


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