豊中運動場100年(102) ラグビー第3回大会/出場2校、決勝戦のみ
1918(大正7)年に始まった日本フットボール優勝大会(現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会)は、年ごとに注目を高めていった。当時、冬季に開催されるスポーツ大会は珍しく、第1回、2回大会の成功は大きな弾みになった。
今回から5回に分けて、第3回大会から豊中運動場閉場直前に開催された第5回大会までを見ていきたい。ラ式蹴球(ラグビー)とア式蹴球(サッカー)が同時に開催されており、混乱を避けるためにラグビー編を3回、サッカー編を2回に分けてたどっていく。
第3回大会のラグビーは、1920年1月18日に開かれた。
第1回と第2回大会では、出場校数が少ないこともあって、高等学校の出場を認めたほか、高校生や大学生も選手登録できた。しかし、力の差は歴然としており、「体が大きい高校・大学生と中学生を対戦させるのは体力的に無理だし不合理だ」と中学側から申し入れがあった。第3回大会からラグビーは、「中学の部」と「高専・大学の部」に分けることになった。
ところが当時、全国の中学校で本格的にラグビーをしていたのは、同志社中学と京都一商ぐらいだった。中学チームとして募集して、出場を表明したのはこの2校のみ。結局、同志社中―京都一商戦がそのまま決勝になってしまった。加えて、「高専・大学の部」は出場校がなく中止になった。
決勝は午後3時に始まった。
前半15分、ハーフバックの片岡春樹選手がスクラムから出た球をトライにつなげ先制する。後半は接戦になったものの得点につながらず、そのままノーサイドで同志社中が初優勝を決めた。
片岡選手は試合を振り返って後年、こう語っている。
「技術的には未熟だった。力で相手を押しまくり、ゴール寸前まで迫っておいてスクラムサイドを抜いてトライを決めるといった戦法だった。オープンに球が出ることはあまりなかった」
同志社中の応援団がひときわ目立った。和服に袖のない防寒マントを着た同志社大学のラグビー選手が、タッチラインのギリギリまで大勢で詰め寄って蛮声を張り上げた。一方、京都一商の応援は2~3人で、圧倒されてしまった。
同志社中のハーフバック・河合道正選手は「初めての中学同士の大会だったので勝ちたいし、勝たんといかんと思った」と話した。学校の名誉を背負っての出場だったが、勉強もせずにラグビーにうつつを抜かしているとの批判も受けた。
そんな時代だったからなのか、家族に隠して試合に出場する選手が多数おり、偽名が横行した。片岡選手も「田崎」と偽名を使って選手登録しており、当時の新聞には「田崎選手のトライ」と記された。(松本泉)
【第3回大会ラグビー・中学の部】
▽決勝(1月18日)
京都一商
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
T G P D 前 T G P D 後 計
1 0 0 0 3 0 0 0 0 0 3
同志社中
=2018.01.24
更新日時 2018/01/24