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豊中運動場100年(104) ラグビー大会選手の進学/国内普及拡大に一役

三高と大阪高商が優勝を争った高専・大学の部の決勝

 豊中運動場は1922(大正11)年5月末に9年間の歴史を閉じることになる。同年2月に開かれた第5回日本フットボール優勝大会(現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会)は、豊中運動場で開催された最後のフットボールの全国大会になった。
2月11日に行われたラ式蹴球(ラグビー)中学の部に出場したのは、同志社中学と京都一商の2校。前年出場した慶応普通部が参加しなかったため、再び決勝の1試合だけになり、3大会連続で同一カードになってしまった。
 前半、同志社はフォワードとスリークォーターバックスの連携がうまく取れず、攻めあぐんだ。それでも橘選手がトライを決めて先制する。後半も一進一退が続いたが、久保田選手のトライで追加点を挙げた。同志社は3連覇を飾った。
 高専・大学の部には、第三高等学校、早稲田大、大阪高商が出場した。
 11日の準決勝は三高―早稲田大がぶつかった。早稲田は学生相撲の選手をフォワードにするなど、体格で三高を上回る陣容で挑んだ。しかし三高は巧みな試合運びで終始リードを保ち、早稲田に快勝した。
 翌12日の決勝は三高―大阪高商の京阪対決となった。一進一退の緊迫した展開で両校とも得点できないまま後半に入った。そして終了5分前、三高の内藤選手が遮二無二敵陣を突破して西北隅にトライ。これが決勝点となり三高が優勝を決めた。
 中学の部で3連覇を飾った同志社中は、1924年の第7回大会まで優勝を続け5連覇を記録する。中学ラグビー界は同志社中、京都一商など京都勢ばかりで「全国に広げるのは難しいのではないか」という弱気な声も出ていた。
 しかし、豊中運動場で生まれた全国大会は、着実にラグビーの実力を上げ、注目度を高めていた。そして日本フットボール大会で活躍した中学生が、高校や高等専門学校、大学予科に進学してラグビーチームをつくり、実力の底上げを図っていった。豊中生まれの選手たちがまいた種は、確実に全国で育っていく。
 もし豊中運動場がなければ、もし豊中で日本フットボール大会が開かれていなければ、日本のラグビーの普及拡大は30~40年遅れていただろう。(松本泉)

【第5回大会ラグビー中学の部】
▽決勝(2月11日)
京都一商
 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
 T G P D 前 T G P D 後 計
 1 0 0 0 3 1 0 0 0 3 6
同志社中
【同高専・大学の部】
▽準決勝(11日)
三高18―0早稲田大
▽決勝(12日)
大阪高商
 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
 T G P D 前 T G P D 後 計
 0 0 0 0 0 1 0 0 0 3 3
三高
=2018.02.14 

更新日時 2018/02/14


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