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豊中運動場100年(82)  フートボール大会ラグビー決勝/全同志社、初代覇者に

ラグビーの初の決勝は全同志社の一方的な試合になった

 日本フートボール優勝大会(現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会)の第1回大会は1918(大正7)年1月13日、豊中運動場でラ式蹴球(ラグビー)の記念すべき決勝戦を迎える。
ラグビーもサッカーも日本に伝わって日が浅かった。選手も指導者も少ない中での全国大会の開催である。すべてが手探りだった。
何よりも全国統一のルールがなかった。ラグビーは急きょ、慶応、同志社、三高が採用しているルールを調整して統一ルールをつくった。細則については、問題が起きれば審判員の合議で決めるとして急場をしのぐことになる。得点はトライ3点、コンバージョンゴール5点、ドロップゴール4点、ペナルティーゴール3点とされた。現在と違ってトライよりもキックの点数の方が高かった。
一方、サッカーは「日本サッカーの開祖」とされていた東京高等師範学校の制定したルールをそのまま使うこととした。
会場設営も手探りだった。
豊中運動場で真冬に大会が開かれるのは開設以来初めて。寒さをしのぐ設備は何もなかった。とりあえずテントを四方に張った簡易式の更衣室を設けた。また相撲の地方巡業が来たときに使った鉄砲風呂を使うことになった。木桶に鉄製の筒を立ててその中に燃えた薪を突っ込んで湯を沸かす風呂だが、温まるのに時間がかかり過ぎた。ある選手は「試合が終わった後、みぞれまじりの雪が降る寒い日だった。露天の鉄砲風呂ではとても体が温まらない。入る順番を待っている間はずっと寒さで震え、入ってもすぐに出なければならずますます震え上がった」と話す。
決勝は全同志社―京都一商の対戦。全同志社は圧倒的な強さで第三高等学校を破り、京都一商は全慶応に対して不戦勝で決勝に進んだ。出場校が4校でしかも不戦試合が1試合あったため、第1回大会のラグビーは2試合目で決勝を迎えることになる。
藍色の濃淡のユニホームの全同志社に対し、京都一商は緑色の濃淡のユニホーム。午後1時40分に始まった。
試合は前半から実力に勝る全同志社が優位に立った。慶応や外国人チームにも恐れられたという強力なフォワードが攻めまくり、京都一商は防戦一方となる。大久保選手、諏訪選手、陳選手が次々とトライを決めて14点を挙げて前半が終わった。
後半も技量の差が歴然と現れてしまった。大久保選手、諏訪選手らの4トライなどで17点を奪取。結局、全同志社が31―0の零封勝ちで第1回大会の覇者に輝いた。
京都一商は当時の中等学校のラグビーチームでは「関西の雄」と呼ばれるにふさわしい実力を持っていたが、大学生選手が多数参加する全同志社には歯が立たなかった。
京都一商の増田選手は「同志社は大学との混成チーム。だから京都一商は中学生の純血チームとして事実上の優勝をしたと思っている」と答えた。京都一商はこの後、常に優勝を競う強豪チームとして注目を集めていく。(松本泉)

◇第1回日本フートボール優勝大会
ラ式蹴球(ラグビー)
【1月13日決勝】
京都一商
 0 0 0 0  0◆0 0 0 0  0◆0
 T G P D  前◆T G P D  後◆計
 3 1 0 0 14◆4 1 0 0 17◆31
全同志社
=2017.02.07

日本フートボール優勝大会 東京高等師範学校

更新日時 2017/02/07


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