豊中運動場100年(74) 日比オリンピック/開場4年、初の国際大会/フィリピン選手、暑さに気勢
1917(大正6)年。
日本のスポーツ界の最大のイベントは5月に東京で開かれる極東選手権競技大会(極東オリンピック)だった。国際大会の開催は史上初めてとあって日本国中が沸いた。
極東選手権競技大会は1913年、フィリピンキリスト教青年会(YMCA)のブラウン主事が提唱して創設され、マニラで第1回大会が開かれた。フィリピン、中国のほかに日本も参加を要請されたが、「キリスト教の宣伝に利用される」「アメリカ人主導の大会だ」などを理由に非公式での参加にとどめた。2年後の1915年に開催された第2回上海大会でも、日本は非公式参加だった。
競技種目は陸上、競泳、野球、テニス、サッカー、バスケットボール、バレーボール、自転車で、アメリカ人の指導を受けるフィリピン選手が圧倒的な強さを誇った。
そして第3回大会は、東京の芝浦埋め立て地での開催が決まった。日本は公式参加国となったことから選手の強化を始める。豊中運動場では、日本オリンピック大会が代表選手の選考会になったほか、定期的に陸上競技練習会が開催され、国際大会と直結するグラウンドと位置付けられるようになった。
日本に伝わったばかりのバスケットボールやバレーボールは、これを機会に競技人口が一気に増えていった。市民へのスポーツの普及や実力アップという点で、大きな転機となる大会だったといえる。
大会の認知度が上がると、思わぬ出来事も発生する。創設当初は「極東オリンピック大会」が名称だった。しかし本家の近代オリンピック大会の提唱者であるクーベルタン男爵がオリンピックの名称使用を禁止したため、第3回東京大会からは「極東選手権競技大会(極東大会)」が正式名となった。
せっかくの国際大会を東京だけで済ませてしまうのはもったいない。
日本一のグラウンドと評価の高い豊中運動場で、東アジア最強のフィリピン選手と日本選手に真剣勝負をしてもらおうと、大阪毎日新聞が主催して「日本・フィリピンオリンピック大会(日比大会)」を開くことになる。さすがのクーベルタン男爵もここまで「オリンピックの名称使用禁止」を訴えることはなかった。
5月8日から12日までの極東大会に引き続く形で、フィリピンチームには大阪に移動してもらい、20日の日曜日に開催することが決まった。豊中運動場にとっても初の国際大会となる。開場から4年。記念すべき年となった。
東京での第3回極東大会は、初夏とは思えないほど気温が下がり薄ら寒い中での競技となった。南国からやって来たフィリピン選手は思うように記録が伸びない。金メダル数は日本がフィリピンを抜いて1位となった。
それに対して、フィリピン選手団が到着した5月18日の大阪は汗がにじみ出る暑さ。「暑い、暑い」と汗をふくフィリピン選手は「気候がすっかり夏になったから大いに走れますよ」と意気を上げた。(松本泉)
=2016.10.04
更新日時 2016/10/04