豊中運動場100年(68) 中等学校野球/慶応普通部が優勝/大阪・東京対決制す
第2回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)は1916(大正5)年8月20日、市岡中―慶応普通部の決勝戦を迎えた。
地元・大阪の代表校が東京のチームと対戦するとあって、豊中運動場には早朝から熱心なファンが詰め掛けた。豊中停留場からグラウンドに通じる直線道路は、梅田からの電車が到着するたびに人の波ができた。
市岡中の応援席は茶色の厚紙でつくったメガホンで埋まってしまった。黒い上着に白いはかま、赤い帽子をかぶった応援団長が特大の応援旗を振ると、まだ試合開始まで時間があるというのにたちまち「わっしょい、わっしょい」という掛け声が響き渡る。立すいの余地もなくなった豊中運動場は興奮のるつぼとなった。
長野師範、一関中、鳥取中を破って決勝に名乗りを上げた市岡中だが、大きな誤算が生じた。一関中戦で無安打無得点試合を記録するなど好投を続けていた主戦の松本終吉投手が、前日の準決勝で右肩を痛めてしまい左翼手としての出場になってしまったからだ。富永徳義捕手が急きょ投手として登板する不安を抱えてのスタートになった。
一方、愛知四中、香川商、和歌山中を降してきた慶応普通部は、山口昇、新田恭一、河野元彦の3投手がフル回転した。現在の高校野球では複数投手による継投は珍しくないが、当時は1人の投手が全試合を投げ抜くのが当たり前で、3投手が交互に登場することは画期的だった。慶応は満を持して主戦の山口投手が先発した。
午後2時、試合開始。
負傷した松本投手の替わりに登板した市岡中の富永投手は、3回裏に慶応打線に捕まってしまった。慶応は敵失に乗じて先制、その後も長短打にバントを絡めて猛攻を加え、守備陣の乱れもあって一気に5点をもぎ取った。
しかし市岡中はあきらめなかった。4回表、1死1、2塁から平松啓二郎選手の中前打で守備が乱れる間に1点を奪取。さらに敵失で2点目を上げて食い下がった。
市岡中の富永投手は4回裏に2塁打を打たれてさらに1点を失うが、5回以降は慶応打線をゼロ点に抑えて味方の反撃を待った。しかし巧みな制球力でコーナーをつく投球を続ける慶応の山口投手を最後まで打ち崩すことはできなかった。6―2で慶応普通部が勝利を収めて見事に優勝を飾った。
大阪毎日新聞は慶応普通部の優勝を次のように分析した。
「第一に投手3人を巧みにプレートに立たせて常にチームに余力を残させた。第二に9人の打撃力にムラがなかった。第三に主将山口を中心に統一がついていた」
この日の決勝戦を豊中運動場で応援した人は1万人を越えていたのではないかといわれている。試合終了後は慶応の優勝をたたえる人や市岡中の敗退を悔しがる人で騒然となり、混乱がピークに達してしまった。また、当時の箕面有馬電気軌道の輸送力では短時間で乗客をさばくことができず、豊中停留場周辺から運動場までの道路は夜遅くまで乗車待ちの人であふれかえってしまった。
中等学校野球の人気が急上昇するとともに豊中運動場の収容能力と電車の輸送力に不安の声が上がり始める。豊中運動場での全国中等学校優勝野球大会の開催はこの年が最後になってしまった。(松本泉)
▽決勝(8月20日)
市岡中 000200000=2
慶応普通 00510000×=6
(市)富永―田中 (慶)山口―出口
市岡中 35 3 11 0 1 1 6
打 安 振 四 犠 盗 失
慶応普通 32 4 10 4 1 6 8
=2016.07.07
更新日時 2016/07/07