豊中運動場100年(61) コレラ流行も観客詰め掛け/全国中等学校野球が開幕
中等学校野球の人気は天井知らずだった。
豊中運動場で1915(大正4)年8月に開催された全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が弾みをつけた。全国から代表チームが集まって日本1を決めるという日本のスポーツ界初の試みは、野球人気に火をつける。その舞台となった豊中は一気に全国に知られるようになった。
翌1916(大正5)年の第2回大会には前年より2校多い12校が参加した。前回は準備期間が2カ月足らずとあって予選大会は大混乱し珍事が相次いだが、全国12地区で開催された第2回大会の予選大会はスムーズに進み、次の12校が代表校になった。
東北=一関中▽関東=慶応普通部▽東海=愛知四中▽北陸=長野師範▽京津=京都二中▽大阪=市岡中▽兵庫=関西学院▽紀和=和歌山中▽山陽=広島商▽山陰=鳥取中▽四国=香川商▽九州=中学明善。
北海道からの参加校はなく、豊中運動場の地元となる近畿からは4校が参加した。当時の交通、通信事情などを考えれば仕方のないことだった。
8月16日、開幕。
この年は全国的にコレラが大流行していた。大阪でも死者が多数出ている。医療技術が低く衛生状態も良くなかった当時、コレラは生死に直結する恐ろしい病気だった。選手たちに徹底した予防策を求められた。
広がるコレラ騒ぎをよそに、豊中運動場には早朝からファンが詰め掛けた。観覧席の丸太にステッキをひっかけてぶら下がる者や、グラウンドが一望できる木に登り太い枝に手拭いで腕を縛りつける者まで現れた。
大阪朝日新聞の上野理一社長の始球式で、開幕試合の和歌山中―鳥取中が始まった。
両校は前年の2回戦で対戦している。8回まで1点リードされていた和歌山中が9回表に7点を挙げて大逆転の勝利を収めていた。鳥取中にとっては是が非でも雪辱を果たさなければならない試合だった。
鳥取中は1回裏、四球と犠打で2塁に進んだ走者が内野手の失策の間に生還し先制点を奪取。無安打での先制に「幸先がいい」と応援席は大いに盛り上がった。しかし和歌山中は2回表、1死3塁からスクイズで同点としたあと、相手守備陣の乱れに乗じて2点目を挙げ一気に逆転した。
鳥取中は五回裏、1死2、3塁の好機をつかんだものの併殺打で得点ならず。再三の好機も和歌山中・谷口忠夫投手の粘りの投球で得点に結びつけることができなかった。鳥取中の雪辱はならなかったものの、1点を競り合う好ゲームに豊中運動場を埋めた観客は興奮を高めた。(松本泉)
▽8月16日
【一回戦】
和歌山中 020000000=2
鳥取中 100000000=1
=2016.03.29
更新日時 2016/03/29