豊中運動場100年(56) バスケも日本初の公式戦/「非常に弱い」嘆くコーチ
前回、バレーボールの日本初の公式戦が、豊中運動場で開催された第3回日本オリンピック大会(1916年5月)で行われていたことを明らかにした。神戸高商や京阪神のキリスト教青年会(YMCA)など7チームが参加しリーグ戦を実施。翌年に東京で開かれた極東オリンピックには出場選手から多数の日本代表選手が選ばれ、日本にバレーボールが普及する大きなきっかけとなった。
バレーボールとともに、バスケットボールも第3回日本オリンピックで公式戦が組まれた。バスケットボールはバレーボールよりも普及の速度が遅く、前年の1915年に京都YMCAで日本で初めてのバスケチームがつくられたばかりだった。競技人口は全国で100人にも満たず、競技大会を開催したことはなかった。豊中運動場で行われる公式戦が日本バスケットボール界の晴れの初舞台となった。
バスケットボールは1908年に米国でバスケを学んだ日本人によって伝えられたといわれている。しかし体育館などの施設が整備されていないこともあって普及せず、5年後に米国YMCAから派遣されたF・H・ブラウン氏が指導にあたるようになってようやく選手が育ち始めた。
ブラウン氏は施設が整っていた京都、大阪、神戸のYMCAで指導したため、関西でバスケットボールが定着。日本初のバスケチームができた京都YMCAの三条本館は「日本のバスケットボール発祥の地」となった。
第3回日本オリンピックの第1日午前に女子の部、午後に男子の部が開催された。しかし、女子の部の参加は神戸女学院のみ。男子の部は京都YMCAと神戸YMCAの2チーム。結局、女子の部は模範競技にとどまり、男子の部はチーム結成が早かった京都YMCAが22―8で勝利する。日本初の公式戦は少し寂しいスタートになってしまった。
バレーボールとバスケットボールの指導にあたり、ようやく公式戦の開催にこぎつけたブラウン氏は辛口のコメントを残して豊中運動場を後にした。
「バスケットボールにしてもバレーボールにしても日本人は非常に弱い。日本でそのチームを持っているのは、神戸と京都の二青年会(YMCA)に過ぎないという状態なのだから。来年5月東京で催される極東競技大会で、日本はその競技場を提供していたずらに他国人にほしいままにされるのか。今から1年間に十分の努力あらんことを熱望する」
翌年の極東オリンピックには京都YMCAチームが日本代表として出場したが、ブラウン氏の予想通りフィリピンと中国に敗れて最下位。バレーボールとともに苦い国際デビューとなった。(松本泉)2015.12.15
更新日時 2015/12/15