豊中運動場100年(53) 初登場のやり投げに歓声/日本オリンピック第1日
翌年の極東オリンピックの代表選手選考会を兼ねる第3回日本オリンピック大会は1916(大正5)年5月20日、豊中運動場で開幕した。新聞は「主催地たる我が日本選手が万一中国やフィリピンに勝ちを譲るがごときことあらば、由々しき大事といはざるべからず」と書きたてた。
競技種目をメートル制にするのかヤード制にするのかで開幕直前までもめた。国際オリンピック大会ではメートル制を取り入れていたが、極東オリンピックはヤード制だった。極東オリンピックの代表選手を選考する大会ということで結局ヤード制が採用になる。おかげで200メートル走が220ヤード走、1600メートル走が1マイル走などとなり、他の大会の記録と比較ができなくなってしまった。
午前9時半に競技が始まった第1日は、短中距離の予選のほかに、やり投げ、ハンマー投げ、棒高跳び、5000ヤード、1マイルリレーの決勝があった。
最初に会場を沸かせたのはやり投げだった。日本で競技が始まって1年足らず。観衆のほとんどが初めて見る競技だった。甲斐義智選手(東京倉庫大阪支店)が日本記録を10メートル近く上回る新記録で優勝を決めると大きな歓声が起こった。
続く棒高跳びでは野崎恵選手(神戸二中教員)が2メートル76で優勝を飾った。野崎選手は第1回大会で2位だったことから「今回は私が第1位だったのは思いがけない幸運です」と喜びを語っている。
そして第1日に最も注目を集めたのが5000ヤード走だった。豊中運動場の中央に設けられた1周440ヤードの正方形のトラック11周半で競った。レースは後半になって動いた。6周目から先頭に立ったのが下馬評では名前が上がっていなかった砂越茂選手(神戸・三和商会)。第1回大会の5000メートル走で優勝した加藤富之助選手(同志社)と激しいトップ争いになる。しかし砂越選手は10周目ぐらいから加藤選手に大きく差をつけ余裕の1位でフィニッシュした。
砂越選手はレース後に「5周目に7、8人を抜き、最後まで続けて第一着を得ましたが、私はこの競走よりマラソンのほうを望んでいます」と話した。
日本オリンピックの開催に合わせて箕面有馬電気軌道は特別輸送体制を組んだ。未明から午後9時まで臨時電車を走らせ、ピーク時には2分おきに運行した。すっかりおなじみになった特別乗車券も発売。箕面や宝塚にも行ける梅田―豊中往復特別切符(19銭)が飛ぶように売れた。(松本泉)2015.10.19
更新日時 2015/10/19