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豊中運動場100年(50) プロ球団つくりたい/小林一三が豊中で提案

1945年ごろの小林一三。30年前に豊中運動場でプロ野球球団の創設を提案していた

1916(大正5)年が明けた。
年末から冬季合宿している早稲田大野球部選手は豊中運動場で年を越したことになる。春に予定している米国遠征に向けてスタートダッシュが肝心だった。
ところが元日、2日はあいにくの雨模様。3日が年明け最初のグラウンドとなり、早稲田大と四条畷中の試合が組まれた。雨が続いただけに、豊中運動場は観客で埋まった。
ただ試合は一方的だった。早稲田大は1回に9点、2回7点、5回5点の猛攻、四条畷中は「乱打乱撃に遭い四球12を算し」(翌日の大阪毎日新聞)て1―24で惨敗する。
 翌4日。奈良で冬季合宿をしていた明治大が早稲田大と対戦した。明治大は前年、重なるトラブルから一時休部。11月から練習を再開して再起を期しての合宿だけに勢い込んで豊中運動場に乗り込んできた。
 試合は両チームともに初回から打線が奮起した。明治大が3回表に長打攻勢で3点を挙げて勝ち越せば、早稲田大は六回裏に相手守備陣の乱れに乗じて一挙に5点を奪い逆転。8回裏にも2点を加えた早稲田大が9―5で勝利を飾った。
 そんなある日。箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の創業者である小林一三が、豊中運動場に冬季合宿中の早稲田大野球部を訪ねた。チームに帯同してきた河野安通志と面談する。河野は早大野球部創設期のエースとして活躍、ワインドアップ投法を日本に紹介するなど近代的投球術を広めた。後に日本初のプロ球団を創設する野球界の中心人物だった。
 小林はこう切り出した。
 「日本でも野球の人気が高まってきた。米国では職業野球が盛んなようだが、日本でも職業野球をやってみてはどうかと思うのだが……」
「大学出を採用して2年やらせてみる。もしだめなら直ちに撤収する。若いからすぐにやり直しがきくだろう」
 静かに聞いていた河野が答えた。
 「まだ時期尚早でしょう」
 河野が日本初のプロ球団「日本運動協会(芝浦運動協会)」の設立に加わったのは4年後のこと。もしこのとき、小林の提案に河野が同意していれば、豊中運動場を舞台にプロ球団話は実現に向けて動き出していたことだろう。
もしかすると豊中運動場が日本初のプロ球団の本拠地になっていたかもしれない。夢は一歩手前で夢に終わった。(松本泉)2015.08.26
     ◇
 小林一三記念館(池田市建石町)で開催中の特集展示「小林一三と野球」に関連して、8月29日午後2時から逸翁美術館マグノリアホールで講演会「小林一三が夢見たスポーツ文化」を開く。聴講は無料だが小林一三記念館入館料(一般300円)が必要。当日午前10時から逸翁美術館で座席券を配布する(先着120人)。

▽1月3日
早稲田大 9751002=24
四条畷中 0001000=1
 
▽1月4日
明治大  203000000=5
早稲田大 20000502×=9

小林一三 河野安通 日本運動協会

更新日時 2015/08/26


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