豊中運動場100年(48) 日米の実力差大きく/早大、シカゴ大に勝てず
大正の初め、日本の野球界を引っ張っていたのは早稲田と慶応だった。明治末には米国に長期遠征し最先端の技術と指導法を体得していた。関西では明治20~30(1887~1906)年代に同志社、三高、関西学院、神戸高商が相次いで野球部をつくったが、米国遠征で腕を磨いていた早稲田や慶応とは実力差があった。
関東が早慶、明治を頂点とする大学野球で人気を集めたのに対し、関西で人気を先導したのは中等学校野球だった。豊中運動場で1915年から始まった全国中等学校優勝野球大会が人気に拍車をかける。
関西に遠征してきた早稲田や慶応は豊中運動場でしばしば京阪神の大学チームや中等学校チームと試合を組んだ。日本1のグラウンドで繰り広げられる実力チームの試合は殊の外注目を集めた。
1915(大正4)年10月に来日したシカゴ大は豊中運動場で早稲田大と対戦。初戦、第3戦とシカゴ大が勝ち、来日通算9連勝。日本チームは1勝もできないまま、21日の第三戦が最終戦となった。
1回表、早大はシカゴ大の主戦・ジャーデン投手の立ち上がりをとらえ連打で1死1、2塁の好機をつかみ、敵失で先制。「最終戦で雪辱なるか」と超満員の観客席が沸いた。しかし1回裏からシカゴ大の猛反撃となる。早大が、川嶋、伊東、岸の3投手リレーで猛攻をかわそうとしたのに対し、シカゴ大は好機を着実に得点につなげた。一方、早大は6安打を放ったものの2回以降は得点につながらず、1―9の大差で敗れてしまった。
結局、シカゴ大は10戦全勝で全日程を終えて帰国した。大阪毎日新聞は「我球界の将来の問題は実に好投手の養成にあることを関西におけるこの日米戦で痛切に感じ得た」と総括している。しかし投手力に限らず、さまざまな面で日米の実力差はまだ大きかった。
シカゴ大との対戦を終えた早大は関西のチームと試合をしている。関東と関西の実力を比べるうえでも注目された。
23日には同志社と対戦、早大が一枚も二枚も上と見られていたが1点を争う緊迫した好試合になった。同志社・吉田投手、早大・川嶋投手の投げ合いになる。9回表まで両チームともゼロ行進が続いた。9回裏、早大は無死満塁の好機をつかむ。ここで同志社は3塁へのけん制球が暴投となり3塁走者がサヨナラの生還。試合はあっけなく早大の勝ちに終わった。
翌24日は神戸一中と対戦。さすがに大学と中等学校の実力差は大きかった。早大は六回までに本塁打を含む8長短打を浴びせて神戸一中を大きく突き放す。試合は降雨コールドで早大が勝利した。(松本泉)2015.07.23
▽10月21日
早稲田大 100000000=1
シカゴ大 21113010×=9
▽10月23日
同志社 000000000=0
早稲田大 000000001=1
▽10月24日
神戸一中 000000=0
早稲田大 250001=8
(6回降雨コールド)
更新日時 2015/07/23